私の友達(上村ブログ2008~2021年)

2008年12月13日

ようこそ

 上村です。このブログのタイトルの「こんにちは、私の友達」は、ユーミンの「Hellow,my friend」という曲名をもじってつけました。

 最近、ユーミン(松任谷由実)にこっています。この曲は失恋の歌ですが、「淋しくて 淋しくて 君のこと想うよ 離れても 胸の奥の 友達でいさせて」という歌詞が好きです。これは、別に男女の恋愛だけでなく、親子や真の友達の間でも、おこりうることだと思います。いろんな事情で、愛し合うもの同士が一緒にいられないとき、離れていても、心の中では大事に思っているよ、というメッセージに共感します。もうすぐ、クリスマス。私は3人の娘たちの健康と幸せを祈ります。

 フォーカシングを通じて、知り合ったみなさん、お互い同士を「こんにちは、私の友達」と呼べて、自分自身の内側にあるさまざまの何かにも「こんにちは、私の友達」と声をかけられるといいですね。

南こうせつコンサート

2009年1月25日
南こうせつのコンサートに行ってきました。札幌教育文化会館大ホールは、今年、デビュー40周年と還暦を迎えたこうせつと同年代のおじさん、おばさんを中心としたファンでいっぱいでした。

「神田川」などかぐや姫時代のヒット曲に混じって、新曲も披露しました。タイトルは忘れましたが、軒下の安全な場所に雨宿りしていないで、ずぶぬれになっても、自分の目標や理想に向かっていこうというメッセージがこめられています。最近の私は、冷たい雨や雪に心も沈んで、目標を見失いがちだっただけに、励ましをもらった気がしました。また、ひとりぽっちの人の上にも満天の星空があるよ、というメッセージソングも良かったです。こうせつが60歳という年齢だからこそできた歌だそうです。

アンコール3曲のあとも拍手はやまず、最後の最後に私も一番歌ってほしかった歌を聞けました。NHKテレビの「北海道中膝栗毛」のテーマ曲です。こうせつは涙ぐんで、何度も歌えなくなりました。そして、「この歌詞はいいですね」、と言うのです。「久しぶり会う人は、みんな優しく、羽のように両手広げて迎えてくれるだろう」「この町を出るときは気づかなかった。薄紫の花が咲いている、だれかを待つように」。こうせつは大分県出身ですが、大分にはキャノンの工場もあります。そこで、派遣切りにあった北海道出身者が、北海道に帰る交通費もなく、警察に保護されたという話をしました。北海道の故郷の人が、優しく迎えてくれるだろうという、この歌を胸がいっぱいになって、歌えなくなり、またファンの拍手に励まされて、歌いました。

私も涙が止まりませんでした。この歌は、若いころから、札幌の道新本社で夜、朝刊の編集作業をしていると、近くのテレビから流れてくる歌です。今もこの番組で使われていますね。毎年夏、岩見沢で開かれるフォークジャンボリーでも、こうせつが必ず歌う一曲で、私はこの歌にいつも、涙が出るのです。土地が広くて人が少なく、厳しい自然の中で生きる北海道の人の優しさを歌った大好きな一曲です。田舎育ちのせいか、よけい響いてくるのでしょうか。フォーカシングに結び付けて終わるとすれば、この歌を聴くと「涙が出るような何か」が私の内側にあるのですね。

夢とフォーカシング

  • 2009年1月25日

東京の日本精神技術研究所で24日開かれた「夢とフォーカシング・ワークショップ」に参加しました。講師は日本のこの分野の第一人者、福岡大教授の田村隆一さんです。

5時間半のワークショップの中で、田村さんの話をはさみながら、3回、参加者同士で夢を語り、聴き合う時間がありました。私は二つの夢を取り上げましたが、特に1人30分の時間、話すことができた二つ目の夢では、今まで人に話せなかったことも話せて、とてもすっきりしました。

 田村さんの話で印象深かったのは、もっともフォーカシングらしいという「夢のバイアスコントロール」です。バイアスというのは、めがねをかけて物を見るというように、その人なりの偏向を持って自分の夢を解釈しているということです。したがって、夢の自己分析はなかなか難しい。「土壷にはまる」と田村さんは表現していました。ほかの人に聴いてもらい、適当に茶々を入れてもらうことで、斜め30度上ぐらいからも見てみると、どう解釈していいかわからない状態になって、そのうち、新しい何かが得られるかもしれないというのです。

 この適当に茶々を入れるための質問が「早見表」として用意されていました。それを見ながら、なるべく、相手が予想もしていない質問を脈絡なしにするのがコツだそうです。「どんな感じがしますか」は、相手が黙っていて、聴き手が困ると何回でもOK。「夢の前の日のことは」とか「場所は」「あらすじは」「登場人物は」「その人になってみると」などと、遊び感覚で聴いていきます。思いついた質問でもいいし、遊び感覚でやって、わくわくしなくなったら、安全でないので、やめてしまう、など、まじめにやらないことが重要だそうです。

田村さんは、毎週1回、精神科病院の臨床で勤務されているそうで、現場感覚あふれた機知に富んだお話に、私も山崎さんも大満足でした。今回の主催は、東京フォーカシング指向心理療法研究会でしたので、参加者には病院の心理職や看護師さんも多かったようです。

夢といえば、田村さんに北海道に来てもらって夢とフォーカシングのワークショップを開くというのも、私の夢なのです。怖い夢とか、人には言えない恥ずかしい夢とか、何か生きるヒントがありそうな夢とか、みんな持ち寄って、聴き合うのは楽しいですよ。そうそう、つい2、3日前に見た夢、このワークショップに持っていこうと思ってメモしたまま忘れていきました。とても、不思議な、奥にはいろいろありそうな夢です。今度、どなたか、例会で聞いてください。

村瀬嘉代子さんの講演「聴くということ、繋がること」

  • 2009年3月28日

北海道いのちの電話主催の市民公開講座として、村瀬嘉代子さんの講演会が札幌北光教会で開かれました。村瀬さんと言えば、現在は日本臨床心理士会長です。日笠摩子さんの師として大正大で長く教鞭をとられました。私は、てっきり東京在住と思っていましたが、2008年度から北翔大教授(江別市)を務めていらっしゃるそうです。日本のフォーカシングの礎を築いた故人の村瀬孝雄さんの妻でもあります。

 この日の講演で覚えておきたいことを、資料を参考にまとめます。20代までにたくさんの臨床家を渡り歩いたあるクライエントに聴いた、よき援助者像として①よく聴いてくれる②具体的な示唆や役立つ情報③待つことができる、試行錯誤を受け止める④(クライエントと一緒にやる)行動力⑤ユーモア、楽しさの感覚の5つを挙げました。この5番目が、私にも時々欠けています。生真面目に相手のことを心配しすぎても、かえってダメなときがそうです。

 よき聴き手の要因として、六つあげた中で、四番目の「わかることとわからないことを識別して、分からない不安定な不安に耐える」というのは、相手のフェルトセンスに寄り添うようにして忍耐強く話を聴くときのスタイルですね。六番目の「自分自身の生について触れている」というのは、まさに話を聴きながら、自分自身の胸やおなかのあたりの感じ(フェルトセンス)にも注目しているという、フォーカシングの基本です。村瀬さんはひとこともフォーカシングとか、フェルセンスという理論上の言葉を使わず、「共感」や「受容」というロジャーズ系の用語も単なる「理念型」としてばっさり切り捨てました。

 この情報量が多い時代、まして、電話での相談という役割を果たしている人たちを主な聴き手として、村瀬さんは「相手の心に響く言葉かどうか」を一番強調していました。

 心に響く言葉とは何か。明晰、簡潔、平易で、やわらかく身体感覚を持つ言葉がいいというのです。この「やわらかくて身体感覚を持つ言葉」とは、私達がフォーカシングのセッションで目指しているものですね。新聞にコラムを書くときも、私は意識していました。村瀬さんの話では、難しいケースに当ったときに、同じようなケースについて書いてある文献を探して、新しい概念を理解してマニュアル通りやってみるのではなく、「自分の言葉として咀嚼されていて、公共性や、ほどよい距離感があり、身体をくぐらせて追体験してから対象化された言葉」を使うといいというのです。

 さらに、さりげない自然な表現や、比ゆ(たとえ)も勧めていました。近年、日本中で言葉が貧しくなっていると指摘しました。豊かな比ゆを考える、時間やゆとりをわたしたちは忘れているのでしょうか。村瀬さんは「本質をつかまえていないと、たとえられません」とも言いました。私も昨年、札大でフォーカシングを教えたとき、学生と比ゆの練習をしました。人の本質というか、フェルトセンスをつかむ練習です。きょうの村瀬さんの講演を何かにたとえるとすれば、非常に質の高いタペストリー(織物)の芸術品かもしれません。

 コミュニケーションの端緒をつくるのが難しいとき、いかに、手がかりや繋がりを見い出すか。村瀬さんは相手を対象化した3人称の視点ばかりでなく、「自分が相手ぐらいの年齢のときはこうだったな」とか、自己の内面に生起する内容をとらえ、かつ全体状況を上から眺めてみることを提言していました。この上から俯瞰するというのは、アン・ワイザーがよく言っている「もっと大きな自分から、今ここにある自分の一部をみてみる」というのと一致しますね。そうすることで、共有感覚が生じ、ささやかなつながりの点が生じるというのです。

 編み物をするとき、一つの目から編み紡ぐようにして、こうしてつながった点を線、面、立体へと広げていこうというのです。さきほどのタペストリーのイメージが出てきたゆえんです。

 人は、1人1人が、歴史的、社会的存在として、どこか違っています。だから、病気名や問題を持つ人ということに焦点づけせずに、その人全体をとらえていき、その人が安心できて、つながりを感じられる存在に自分がなるというところに、特定の心理療法や技術、理論にとらわれない村瀬さんの真骨頂をみる思いがしました。

「心理療法の基本」

  • 2009年4月 1日

村瀬嘉代子さんの講演で「難しいクライエントのときは、基本に帰る」とおっしゃったのが心に残りました。ちょうど、自宅に「心理療法の基本」(金剛出版)という本があったので再読しました。

 この本は、村瀬さんと、青木省三さん(川崎医大教授)の対談集で、2000年に出版されました。

 日常臨床のための提言、という副題があります。再読して、さっそく試みたのは、自分の記録を読み返すということです。この本では、面接記録の横に線を引いた欄を残し振り返りを書いておいて、3カ月や半年後に記録を読み返すことを勧めています。私自身は、毎日つけている日記(短いセルフフォーカシングの後に書く)の3カ月、半年前を読み返しました。あのとき、自分の感じ、考えていたことについて、今からみると、随分、いろんなことに気づかされます。今後、どうしたらいいか、先が見えにくくなっているときに、とてもいい勉強方法だと思います。

 ほかにも、この対談集で強調しているのは、講演と同様に、日常の自分の体をくぐらせた言葉で話すということです。自分の言葉、こそが相手に届く。記憶した知識の中から呼び起こすような記号としての言葉ではなく、それまでの全経験から出てきた心のこもった言葉のことです。うつの人がいたら、励ましてはいけないという知識をもとに、周りの全員が「がんばれ」を禁句にして、黙ってしまうのではなく、もっと、今のその人に合った、自分にしか言えない言葉で、少しでも楽になってほしい、苦しみが軽くなってほしいという願いを伝えられたらそれでいいということです。言葉での面接だけで元気になるような軽い人ではなく、全身の状態が健康な心の状態からかなりずれている相手であるほど、マニュアル的でない対応が大切なように思いました。さりげない言葉とか、本人に悩んでもらうような示唆とか、いろいろ参考になりました。

解決指向フォーカシング療法

  • 2009年4月21日

 バラ・ジェイソンの「解決指向フォーカシング療法」を読んだ。この本を読もうと思ったのは、解決指向ブリーフセラピーが極端な機能不全家庭や虐待のある家族への介入の工夫だったというところにある。以下、感想の1回目として、この本にアンダーラインを引いた部分を列挙したい。

 虐待行為に対しては明確な固い境界を持つべきであり、「断じてそれはよくない」。だれかがいつも(どのようなレベルであれ)あなたを虐げる場合には、柔らかい境界を持つのは不適切である。それぞれの人にはその人独自の個人的な限度や許容量があり、自分なりの場所での「線引き」が必要になる。怒り、憤慨、不機嫌さ、自己憐憫、あるいは、その他の否定的な行動を他者に八つ当たり的にこぼすことは、境界侵犯になるだけでなく、(酸のような)実際の毒物を他者にかけるのと同じぐらい精神的心理的に不法なものである。

 健全な人間関係には健全な境界が必要である。

 フォーカシング指向モデルの欠点を補うのは、もう少し「方向指示性」が増すことと、セラピストの内側に、行動ステップを違和感なく与えられる領域が新たに広がることだろう。

 問題の例外を探すことである。つまり、クライエントが否定的なやり方で行動していない時を探す。セラピストの質問:落ち込む感じが今より少ないなとあなたが気づくのは、どんなときですか。あるいは、落ち込む感じがなくなって、気分よく感じると、今と違う、どういうことをしていると想像しますか。

 もし、クライエントが、落ち込む感じから抜け出し、もっと具体的な行動ステップに進みたいなら、解決指向の質問が役に立つ。それは、クライエントを泥沼から救い上げ、何であれ、うまくいくいことを探す方向に向かわせてくれる。もし、クライエントが体験しているのが今までとまったく変わらないことで、何度も二人で取り組んできたことだとすれば、解決指向の言葉を使った質問が、おきまりのパターンを打破するのに非常に有益だろう。「それがうまくいって、もう問題なくなったら、どんなふうに見えるでしょう」。

 トラウマや虐待に苦しめられているクライエントには、「それはあなたのせいではない」ことをきちんと伝えることが決定的に重要です。それを彼らが理解することこそ本当の奇跡なのです。

ジェンドリンは著書「フォーカシング」で6ステップのマニュアルを提唱しているが、第7ステップとして行動ステップを加えたいとも述べていた。まさに本書はこの第7ステップを意識的に促すために、解決指向からの知恵を導入したものとも言えるだろう。(この部分は監訳者、日笠摩子さんのあとがき)

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バラ・ジェイソンは私が1人フォーカシングの友として購入したCD(フォーカシングのプロセスを通じてガイドされる体験)を吹き込んだ人でもあり、その声はなじみのものでした。この本を何度も読んで、解決指向の言葉の意味をつかまえ、自分なりの言葉で言えるようにしたいです。そして、来月の国際会議で彼女のワークショップに出られるのを楽しみにしています。

クリアリング・ア・スペース

  • 2009年5月18日

国際会議5月14日午前

 ジョンの「クリアリング・ア・スペース」(CS)

  クリアリング・ア・スペース(心の整理)に不可欠なのは第1に自分に対して優しい態度です。自分に優しくしないと、うまくいきません。

第2に気がかりをどう感じているかを見つける時間をとる。からだの気がかりを見つける時間をとること。

 リストをつくるのは、アタマの作業。

 本当のクリアリング・ア・スペース(CS)は胸のあたりでやる。いくつか見つけたら、後景の感覚を見つけて、クリアになった空間にいるようにする。

 しばらくいた後にクリアになった空間の感じを表現する言葉やイメージを見つける。

 クリアになった空間から、生を前進させる一歩が出てくることが有益。

 もたらすことは、well being が自然な状態と思えること。太陽がいつもそこにあり、雲が来たら、雲に少し動いてもらえる。

 私たちは問題に関心を持っているかもしれないが、私たち自身は問題そのものではない。このことは、多くの人にとって驚きのように感じられる。そこに行くと「静けさ」のような場所がある。宝の箱のように、思い出し、不思議な部分が発見される。

 ジェンドリンは「CSはフォーカシングの9割を占める」と言った。

 その歴史を振り返ると、1970年代から80年代にかけて、独立したストレス・マネージメントとして使われる。自殺未遂の子供たちとかに関して、たくさんの論文が出ている。

具体的な実例を紹介しましょう。

 乳ガンの女性「ドリルされるような感覚の首の痛み」

 痛みの性質を聞く。周囲に枕を置いて、やわらげる

 「家族や友人があまりに近いので、本当の気持ちを話せない」と言っていた。

 胸の中に硬くなっている感じ

  「自分の死後、子供がクリスチャンとして育たないという不安」。

 どこにおいていいか

  「牧師の手の上」

 ほかには…

  「いつも病気で、不幸せな母親しか見せていない」

 …

 「怖さ、そのものをみている自分を感じる」-新しい意識の状態

 そこで、アセスされているのは、もっと高次な自分。もっと資源を持っている自分

 娘のために、自分の幸せなときを思い出して本を書いた。

クリアリング・ア・スペースが与える四つの人生向上スキルを挙げます。

①自分で使えるストレス減少法

②暗々裏に感じられるものを象徴化する

③性急な気がかりから適当な距離をとる

④どんな状況でも、クリアでとてもいいスペースを見つける方法

 トラウマからの回復には次の4つの要件があります。

 ①過去のトラウマからの安全な情緒的距離 

  ②患者がコントロールするペース

 ③自分の身体に安全感を持てるようになる

 ④過去のトラウマパターンに新しい意味の創造

 CSはこれらを効果的に満たします

■質疑

 Q)「問題を外に置いたり、出したりできないこともあるので、CSはいらないという声もあるが…」

 A)CSによって問題を「外に出す」のではなくて、それとある関係を持つことで、もっと高次な自分に気づけばいい

 CSの教示については、http://www.akiraikemi.com/ai/Memo_(CAS).html   に印刷できるものがあります。

大好きなことにフォーカシングする

  • 2009年5月18日

国際会議13日午前のジョンのプレゼンテーション「大好きなことにフォーカシングする」の要旨です。

ネガティブなものを消すことは難しい。大好きなこと、愛情を持っていることは、ネガティブなこと以上に、私たちの中にとどまっていることが少ない。どのようにポジティブな感情をとどめておくかの練習をしましょう。愛情はとても大切です。私たちが本当はどういう人間かを思い出させてくれて、ネガティブな状況を乗り越えさせてくれます。

愛を定義すると、幸せとか喜びとか。たくさんの異なるポジティブな感情が一気に盛り上がる状態です。血圧は低くなり、呼吸数は少なく、緊張度も低くなり、10年は長生きすると言われます。

ポジティブ心理学についてお話します。心理学は60年間、医療モデルでした。病気の治療です。メンタルな問題をカテゴリーに分類して治療法を探ってきました。病理学的な視点から見てきました。1998年にマーティン・セリブマンが米心理学会会長になり、「希望と楽観主義について研究しなきゃならない」と言いました。もっと、ポジティブな面をみることで、人々を反映する方向にいかないといけないということです。「われわれの内側にあるベストなものを育てていくことが大事だ」。治療して、壊れたものを治すだけではなく、個人の強さ、性質、人柄に焦点を当てていこうということです。

幸せになる3つの側面があります。一つは楽しい、愉快な感情を流れていくのではなく、自分の中でしっかりと感じて、じっくり味わうこと。二つ目は、フローの体験です。音楽と一体になるように、楽しい何かに没頭する時間を持って、それにつかる、ぼーっとすることです。三つ目は、だれかとの関係性の中での意味や意義です。愛している誰かを看病するのはとても大変ですが、意義があります。この3つについて、自分にとっては何かをそれぞれエクササイズしてみましょう。こういうワークを重ねていくと、もっと回復する力を持てます。

フォーカシングをどう教えるか

  • 2009年5月18日

国際会議インタレストグループ

 フォーカシングの教え方(5月13、14日・アンワイザー主宰)1)グループでの問題

 (質問者 上村   回答者 BBサイモンら)

 BBは、ボストンで20年間、毎週チェインジズをやっている。新しい人が来たとき、新しい人はオブザーバーになる。BBがリスナー。フォーカサーは、自分のプロセスがはっきりしていて、それを言える人。

①3人1組でやる(新人は見ている役)

②「何か質問はありますか」「お客様としてこのままオブザーバーとしていてもいいけど、聞いてほしければ、それを選ぶこともできます」

 オブザーバーでいたければ、ずっと、そのままでいい。

 お客様は、2回まで。

 3回目からはBBの教えているクラスに来て勉強してもらう。体験を積んだ後で、グループのメンバーになってもらう。

 チェインジズは練習グループ。教えるグループではない。

 20年間続けて来られた理由は、BBが無理しないで続けられたこと。お茶を出さなくてもいい。ボストンにも、いろんなグループがある。お金を払わなくてもいい所もある。

2)フォーカサーがリラックスしすぎるときは、どうするか

 アン 目を開けてもらう。早い言葉で教示する。瞑想をやっている人は、リラックスムードになりやすいので、早い言葉で教示した方がいい。事前に言っておこう。「フォーカシングは、瞑想より1階上のレベルで起こるので、エレベーターで1階上がってください」

2)「自分のやっていることは正しいフォーカシング?」と疑問が生じたとき

 絵をかいてもらう。それがフェルトセンスならいいけど、そうでなければ、もっと説明する。肩がちょっと下りるとか、小さなシフトがみられたら、そこから始める。

 フォーカサーが「はい感じます」と、気づいたときだけ、それを言う。

 先に短いセッションをする。「あ~」に匹敵する言葉を選んでもらう。私はできていいますか?と言ったら、「できていますよ。それが、内側からのあなたの答えですよ」と答える。

 BBは、「それについて心配しなくていい」と言う。それを心配していると、他のことができない。「私はそれを言えない。あなた自身の中から答えを得てください。答えはあなたです」

 もう一つの疑問として、リスナーになったとき「ちゃんとできているかどうか」がある。

 「あなたは、フォーカサーではないのに、あなた自身に注意を向けている。フォーカサーのフェルトセンスに注意を向けてください」

 今は聞く方に専念して、あとで「ちゃんとできているかどうか」という感じに目を向けてもらう。

3)初心者にフェルトセンスを教えるのが難しいので、太陽光にたとえる人もいる

 ①あなたの体のどこに太陽の光を当てたいですか

 ②じゃあ、光を当ててください

 ③あてた感じで、どう思うか、どう感じるか

4)この人には、フォーカシングと並行してセラピーが必要かどうか迷ったとき

 「リスナーのフェルトセンスで判断する」(アン)。フォーカシング教師とフォーカシング指向セラピストは重なる領域もあるが、ふたつの円のようなもの。

解決指向とフォーカシング

  • 2009年5月19日 15:07

国際会議 バラ・ジェイソン「解決指向心理療法とフォーカシング」

 バラの好きな言葉は、一つは「どちらか一方でなくて両方」、もう一つは「すべてのものに時と場所(季節)がある」。それぞれのモデルにふさわしい時と場がある。両方使えるとき(文)がある。フォーカシングは、精神内界的、自分との関係で自分はどういう人間だろうと問う。ブリーフセラピーは、相互関係的。あなたとの関係で、自分は~。両方ともかかわっていて、いつも両方がそこにある。

 フォーカシングも、「うまくいくのは何か」を問いかけるソリューションも健康志向(wellness work)。病理的なものを避ける。統合のポイントは、「それを今の違うやり方でやったときは、どう感じますか」。問題と違ったやりかたを体の感じで探すと、希望を持てる。

 ポイントは、フォーカシングのすばらしさは、聴き方にあり、フォーカシングほど上手な聴き方はない。ソリューションのすばらしさは、どのように質問するのが一番の問いかけか。フォーカシングでするように、どれだけ相手を大事にするような聴き方をするか。ソリューションは、想像する。問題が解決したら、どんなようすになるか。時間をかけられないときに、自分の感じているものとぴったりかどうかを感じる。ソリューションのカウンセラーはこういう、感じる時間をとらない。フォーカシングの人は、行動ステップ、面接室の外に出て、アクションをとらない。

 質問として、今、ここで面接の終わりにどうなってほしいか感じてもらう。アタマだけでたくさんしゃべっている人には、「クリアリングアスペース(CS)をしましょう」、とは言わないが、「ここに大きな机があります。そこに一つずつ問題を置いてください」という。そのうち、クライエントはフォーカシングをできるようになる。これを、バック・ドア・フォーカシングと名付けた。アタマでっかちな人には「あなたに教える大事なことがある」と、CSを教えて、セッションをいつもCSから始める。

 質問は時間の節約に有効であり、フォーカシング的態度であればOK。クライエントが自分自身に問いかけるような質問であればいい。アタマだけで答える人なら、「その石ってのは、この胃のあたりでどんな感じですかね」とか質問する。「エー、どういう意味ですか」というクライエントには、「ちょっと時間をかけましょう。本当に自分に問いかけてみてください。この大きな石を抱えたまま歩き回ることはどういうことか、自分で感じてみてください」。これも裏口フォーカシング。

 クライエントが「●●ない」と、望んでないことを言ったとき、リスナーには「●●」しか聞こえない。逆に「○○したい?」と望んでいることに言い換える。すべてのクライエントに望むことは、アタマと体の一致ができているかどうか。未来の展望図を持っていること。それが、うまくいったときにはどうなるか。あなたにとっては、どんな違いがあり、どんな感じがするでしょう?

 家族療法は、仮定の質問を多くする。「もし、彼がこう言ったら、あなたはどうするでしょう」とか。自分の中の内側との対話にも使える。

バックグラウンド・フィーリング

  • 2009年5月19日

国際会議5月15日、マリーンによる「バック・グラウンド・フィーリング」の発表を聞いた。クリアリング・ア・スペースをして気になる感じを置いていったときに、壁紙のように残っている、いつものあの感じである。

 予備段階として、体の中にあるいつもの緊張や問題とクリアリング・ア・スペースして、自分と結びつかないようにする。問題そのものを、そのものの落ち着く場所に置けると、体にシフトが起きる。問題を下ろして、体が問題ないようにしてから、問題に取り組むことはとても意味がある。「ああ、私がその問題ではなかったんだ」という、広大な広がりが現れる。それには、スピリチュアルなトーンがある。そういうことが、何も起こらなかったら、ジェンドリンは、壁紙のようなバックグラウンド・フィーリングに注意を向けるように言う。いつも、悲しいとか、急いでいるとか、頑張っているとか、寂しいとか、それをいったん取り出してみると、たいてい、大きなスペースが広がる。

取り出してはっきりさせられない人もいる。エルフィーは、バックグラウンドフィーリングを自分自身の人生に対する卓越した気持ちとしてみる。人生に対する怖れとか、怒りのようなやっかいな、苦しいものといった不快なバックグランドフィーリングを持つ人もいる。それを決して取り出すことをしないで、ゆっくりと眺めるようにして、それにフォーカシングしよう。ジェンドリンは、問題を横に置きましょうと言ったが、それが難しいときは、それにフォーカシングするといい。抑圧されたものとの暗在的なつながりを体験していく。古い傷とか、残っているトラウマ、子供のころの傷、代理的に受けたものや、家族の歴史的環境から受け継いでしまったものもある。

それに対して、リソース(よいエネルギー)=心地よく感じられるもの=があって、もっと気持ちよく感じられるよう助けてくれる。練習してみよう。まず、クリアリングアスペースをして肯定的エネルギーを感じる。ポップコーンがはれるようにいろんなバックグラウンドフィーリングがわき上がってくるだろう。それへの態度も感じてみる。そのバックグラウンドフィーリングの向こうにあるものも感じてみる。困難な状況にいる人は、そこにとどまったとき、いつもの暗い感じがするだろう。自分はここにいる、でも、何かそれを超えたものが見えるかなあと聞くと、すばらしいものが見えてくる。ひょっとしたら希望かもしれない。たとえば、人が亡くなった悲しみなら、その先に何があるか、ちらっとみるように感じる。

ときには、beyond(むこうにある感じ) が悪いときもある。通常はよいもの、エネルギーに満ちた物。バックグランドフィーリングと、それへの態度を一つのものとしてとらえてください。

肯定的なバックグラウンドフィーリングは、リリースとしてとらえてほしい。

質問)バックグラウンドフィーリングが見つけにくい

答え)無理に探そうとする必要はない。それにとらわれる必要はない。クリアリングアスペースをしておいていっても、残るような感じがバックグラウンドフィーリング。深くつまっているようなもの、悲しみ、泣いている女性だったり、息子や夫、どうしてその悲しみがあるのか、問いかけた。それがバックグランドフィーリングと気づいた。なぜ、悲しいのかなあ、と聞くと、広大な広がりを感じた。何度も、何週間、何年も繰り返して続くものがある。最初はバックグラウンドフィーリングがわからなかった。批判でいっぱいだったから。それにフォーカシングすることでわかるようになる。

質問)バックグランドフィーリングを感じる方法は

答え)①名前をつける ②それと一緒にいる。それが難しい人にとって二つの質問の方法がある。一つは、自分の中に何か抑えつけられているものとの、気持ちとのつながりを感じることができるか。心を開いてオープンに感じてみましょう。私の中で何か押さえ付けられている感じを見つけることができますか。何か浮かんできたら、「その代わりに本当は何が起こるべきだったのか」聞いてみよう。

第二に、悲しいバックグランドフィーリングのときには「このバックグラウンドフィーリングには私のものではない何かがあるだろうか」と聞く。何か、私が環境から吸収してしまったものがあるだろうか。家族、地域、歴史…それに世代を超えた環境から吸収してしまったものがあるだろうか」。この質問によって、その悲しみが私のものでないということに気づく。私の母のものだったと気づくと、大きな空間ができる。それは私のものでないんだと気づく。これがバランスをとる秘訣。たとえば、親が大好きで、とてもいい子だったら、親の秘密を受け継いで、親のトラウマを子供が吸収してしまう。自分の気持ちと親の気持ちを両方吸収してします。自分の悲しみは、私のせいじゃなかったというので、すごくほっとする。それが自分に属しないということをわかったときに楽しくなれる。それを70代の母に返す必要はない。その気持ちに敬意をもってお別れする。母のために祈り、川や山に流すとか、それに対してある種のお祈りをささげるようなことをすればいい。私の背負っている歴史の証人に知らず知らずになっていた。

 体で感じられるかどうかが大事。悲しみやトラウマになっていることは、もう、終わったんだ、過去のことなんだと、しっかり気づけたら、それをからだで気づけたらいい。

 バックグランドフィーリングについては、フォーカシングインスティチュート(TFI)のホームページの日本語版にマリーンの書いた翻訳論文(森川さん訳)が載っている。

コミュニティ・ウェルネス・フォーカシング

  • 2009年5月21日

心理社会的ウェルネスツールとしてのフォーカシングの学びと普及に関する試み

(国際会議5月15日午後、パトリシア・A・オミディアンら)

 戦禍にあえぐパキスタンとアフガニスタンで始められ、フォーカシングの小さな断片を教育(学校や職場)現場や地域社会に幅広く浸透させる方法である。その地域の文化を尊重してリスニングの練習を進めることが大事なので、その例として、イスラム社会(アフガン)での教示の例を下記に挙げる。イスラムでは、人を「客人」としてもてなす風習があり、それをふまえた。また、戦争で人の心が荒れているため、静かな、美しい空間をイメージして、絵にかいてみることが効果あったという。教えるとき、「フォーカシング」というタイトルではなく、「公衆衛生」「健康教育」のようなタイトルを使っているようです。

 1)ドアのところにお客さま あなたのからだを感じてみましょう お客さまがドアの所に来られたと想像しましょう 内側の感じに気づきましょう それを描写しましょう ジェスチャー、ことば、イメージを見つけましょう 内側の感じのそばにそれを抱えましょう その表現がぴったりしているかどうか感じてみましょう もっとぴったりする表現に変えましょう

 2)静かな、美しい空間 静かな、美しい場所を思ってみましょう あなたのからだを感じてみましょう 静かな、美しい内側の場所を感じましょう そこを見てみましょう そこに腰を下ろしましょう 音、におい、手触り からだの感じを感じてみましょう からだの感じを描写してみましょう からだの感じがとどまっているように招いてみましょう

3)すばらしいリスニング パートナーまたはグループでの練習 すばらしいリスニングの質に名前をつけましょう だれかがわたしたちに耳を傾けるとき わたしたちが誰かほかの人に耳を傾けるとき

4)すばらしいリスニングを練習しましょう リスナーは、静かな美しい内側の場所を見つけましょう わかち合っている人に気づいたことを伝えかえしましょう やさしく、好奇心をもって、裁かないで、偏見なしに、目的を持たないで、ただ聴きましょう

暗在するものへの道筋

  • 2009年5月21日

国際会議5月16日午前、ナダ・ルー

ジェンドリンが哲学的に再定義した「からだ」の意味について話した。

からだは、三つの側面をもつ。ひとつは、状況における身体。人が環境から情報を得て、判断し、行動する。ふたつめは、植物の身体。自分のいる環境の中で、どうやって生きているかを知っているのは、この情報でもある。すべての人間は呼吸をして、食べ物を取り入れる。フォーカシングやTAEができる理由がここにある。

三つ目として、身体は次のステップを含み込んでいる。すでに知っているできあがった言葉や概念から、まだ知らない何かにつながっていく。imply はすでにそこに意味があるという意味で使われている。そこにあるものと、つくりだされるものの境界にあるもの。0ccur というのは、生起する、含意されるものが生じていく。ビートルズが成功したのは、世界の中で若者たちの間で、何かが含意されていて、それが彼らの音楽とうまくフィットしたことで、彼らが成功した。

TAEが教えようとすることは、みなさん1人1人がこういう才能を持っていること。何か世界に与えるものがある。何か自分の中でわくわくする、つくり出されるものを待っている。宇宙の中の何かが、みなさんの中の何かに結びつこうとしている。

TAEワークショップを終えて

  • 2009年8月24日

 得丸さんのTAEワークショップが終わりました。

 私は、後半の理論づくりについては、新聞の社説を書くのと似たような作業だったと感じています。事件、事故担当の論説委員時代、ある事件・事故が起きて社説を書くときには、類似の事件・事故を調べて、パターンを取り出し、今回の事件・事故から出てきたパターンと交差させて、浮かんでくるものを書いていました。類似の事件が二つ、三つに及び、パターンも2つ、3つを交差させるのが普通です。短い時間で集中してやると、すごく疲れる作業ですが、そうした作業からしか、新たな何かや、事件の教訓となる何かは生まれてこないものです。裁判の判決を受けた社説のときも同様でした。データベースで検索したり、新聞生地の切り抜き帳を見たり、法律雑誌を見たりして、似たような裁判の判例を読み込み、パターンを交差させて、出てきた何かを書いていきます。それによって、オリジナルな何かが生まれるからです。そうでないと、評論家の見方をなぞっただけの解説に終わります。

 新聞は個人の経験というより、社会としての経験からパターンを見つけますが、今回のワークは自分の経験。その分、取材する苦労がいらなかったのですが、そのあとの文章化作業は似たような作業でした。言葉そのものや文章の順番を何度も入れ替え、自分のフェルトセンスと行ったり来たりして、言いたいことに近づいていきます。

 お疲れ様でした。こんな作業を言語化して、だれでも使えるツールにしてくれたジェンドリンと、少しでもやさしくできるワークにして、情熱的に教えてくれた得丸さんにあらためて感謝します。

ひとりフォーカシング

  • 2009年9月 8日

国際会議ウェブに発表のレジメ集が載っている。そのうち、近田さんらのインタラクティブのレジメを読んでいて、近年、ジェンドリンがフォーカシングを一人でやらないように言っているという文に出会った。

 私は、1人フォーカシングをすることが多い。ジョンやバラのフォーカシングガイドセッションのCDを聞きながら、適当なところで、CDを止めたりして、することもある。しかし、これも、1人フォーカシングには違いない。そこで出てきたことを日記に書いたりもする。電車の通勤で朝は「ホームライナー」というノンストップに乗って、十数分、フォーカシング(クリアリングアスペース)をすることもある。

 しかし、相互作用を強調するジェンドリンの意図もわかる。聴き手がいるほうが、フォーカシングは楽に進められる。インタラクティブになると、相互作用から来る信頼感を強く感じられる。ジェンドリンが以前から、現実にはフォーカシングの90%以上は一人で行われているが、フォーカシングをする時間は一日数分でいい、それ以上は、世界や環境と相互作用をしながら生きてほしいと言っていたのも思い出す。

 ジョンの発表レジメでも、クリアリングアスペースを電話でやっても、対面と同じ効果があるとあった。電話なら、場所の設定もいらない。1人でする時間をもっと減らして、電話ででも、だれかに聴いてもらうほうがいいかもしれない。

自分史聞き書き隊にフォーカシング

  • 2009年9月 8日

9月5日、中高齢者の自分史づくりを支援する聞き書きボランティアの養成講座で、フォーカシングを教えました。全体として、盛り込みすぎでした。

 2時間半に、①からだほぐし②フォーカシングとフェルトセンスの説明③フェルトセンスの感度チェック(得丸さんによる)④クリアリングアスペースの全体ガイド⑤花束のワーク(得丸さんによる)、さらに休憩をはさんで、⑥黙ってきく練習、⑦すべて伝え返す練習、⑧大事な部分だけ伝え返す練習と続きました。盛り込みすぎた結果、たとえば、花束のワークで出てきたものをペアでシェアリングするとか、いう時間を省きました。初心者には、かえって、人に見せたくない場合もあるだろうし、そのあとの傾聴の練習の中でも話したければ話せると思ったからです。

ただ、その分だけ、1人でのフォーカシングを強いる結果となり、中には、つらい人もいたかもしれません。人に話を傾聴してもらい、そこでの秘密は守るという基本をきちっと教え、自分の体験に触れた話を共感的に聴いてもらう中でこそ、ほっとして、癒やされるという体験をしてもらった方がよかったかもしれません。

ソリューションの講座に参加して

  • 2009年11月21日

札幌で6回にわたり、開催中のソリューション面接実践講座の5回目に出ました。

きょう、教えてもらった収穫は、クライエントが「アドバイスをほしい」と繰り返し言った場面です。

フォーカシングでは、原則として、アドバイスや批判はしないことになっています。クライエントから求められときには例外として、リスナーが自分のフェルトセンスから出てくる言葉を伝えてもいいことになっています。伝えて、そのアドバイスがフォーカサーのフェルトセンスと違っていれば、修正してもらうだけです。

ソリューションでも、アドバイスはしない点は同じです。クライエントに問題の「例外」を聞いたり、あなたの状況ではそんなふうに悩むのは当然だと「ノーマライズ」したりしたうえで、クライエントが例外として話したことをほめて、それをもっと続けはどうか、と提案をすれば、クライエントにはアドバイスしてもらったという受け止め方をするでしょう。

新鮮な何か

  • 2010年2月 7日

きょう、職場の送別会の2次会で、締めの乾杯のあいさつをさせられて、転勤する人に送る言葉として、「新鮮な感じを応援したい」と話した。

 フォーカシングでいう、新鮮な何かには、いいものがあるということ。個々に話を聴くと、配偶者、子ども、親の面倒をみるために、転勤できないなどの理由で異動しない人が多いが、それぞれが、仕事にやりたい何かをもっていて、それをかなえるためにも、転勤したほうがいいと客観的に見える場合もある。

 悩むだろうが、結果として、転勤となったら、そこで感じている新鮮な何かを信頼して、あとは、社会の支援でカバーするという気持ちに切り替えたほうがいいのではないだろうか。

「僕のフォーカシング=カウンセリング」の書評

  • 2010年3月20日

池見陽さんの「僕のフォーカシング=カウンセリング ひとときの生を言い表す」(創元社、2000円+税)を読んだ。帯に「フォーカシング技法からの脱却」とある。私は、この本の中で、フォーカシングは「内側」の感じに触れていく過程だ、という言い方について、そうとらえると、実際に人が生活している「外側」や状況や社会とは離れてしまう可能性がある、という指摘が、胸に響いた。

 「内面ってどこ」「触れるって、どういう意味」というやりとりも紹介されている。私が思い出したのは、アン・ワイザーが来日して札幌などでワークショップをした2006年の秋に、当時、北海道新聞の論説委員として夕刊コラム「今日の話題」に「あるがままに」と題したコラムを書いたときだ。印刷前の刷りを確認して、いざ、印刷まで30分という午前11時ごろ、東京支社の論説委員から「このコラムはさっぱりわからないから、ボツにして、差し替えたらどうか」と電話で言ってきた。まさに、青ざめるというか、血の気が抜けた感じがした。東京の指摘は「体の内側」などの意味がわからないというのだった。

 後版用に書き直した紙面が手元に残っている。「体の内側」は「心の中」に書き換えた。「自分のからだに聴く」は「自問自答する」に変えたような記憶がある。フォーカシングの世界では、あたりまえの用語が一般人には不自然なときは、より、自然な日本語に置き換えるのが、新聞記者の務めと当時は割り切ったつもりだった。しかし、池見さんの著書を読むと、新聞記事だけでなく、フォーカシングの教え方そのものも、もっと柔軟で、日本語に即した言葉遣いに変わっていいと読める。英語の直訳で「inside your body」を「からだの内側で」と使うのではない教示の仕方があっていい。今まで、私はフォーカシングをするときは、目を閉じてすることで、それこそ内側に注意を向けようと、金科玉条のように守ってきたし、初めての相手にもそれを促してきたが、目を開けたまま一点をボーっと見つめることは、アンもマニュアルで認めている方法だ。「感じられた意味」に迫れる聞きかたなら、何でもいいぐらいの柔軟さを持ちたい。

 そういう意味で、池見さんのこの本は、フォーカシングの本質をジェンドリンに身近に接して学んだ著者だからこそ書ける、軽妙かつ味わいのある文章で表現してくれた好著と言えるだろう。

「ジェンドリン哲学入門」を読んで

  • 2010年4月18日

 昨年夏に買い求め、最初の2章を読んだたまま書棚で眠っていた「ジェンドリン哲学入門 フォーカシングの根底にあるもの」(諸富祥彦、村里忠之、末武康弘編著)を読み終えた。

 プロセスモデルそのものの解説部分はやはり、難しく、文字づらだけ飛ばし読みしたところも多いが、フォーカシングやTAE、人格理論にかかわる部分はすっと胸に入ってきた。特に、最終章の人格(パーソナリティ)の変化と同一性の説明は、なるほどと、ひざをうつ思いがした。

 昨日(4月17日)、1年3か月ぶりに、南こうせつのコンサートに行ってきたが、こうせつは、話をしている最中でも、次に何を話したかったのかを忘れ、少し前に戻って、話題を確めながら、「そうそう、この話」と、進めていった。あのとき、少し時間をとって「感じられた意味感覚」「(体の中心部分で感じられる)直接照合体」「フェルトセンス」を感じていたのだろう。 次の話題が見つかったとき、解放感が訪れ、それが会場にも伝わっていった。ジェンドリンは、こんな体験過程を人生の今に取り入れた生き方を求めているということが、本書からよくわかった。

 こうせつは、政治も経済も閉塞して、先が見えない今の社会にどう生きたらいいのか、という問いを投げかけ、彼なりに、「心がつながっていくこと」を答えとし、会場に来ている人たちに空元気を出して、歌い、手を動かし、周りに伝えていくことで、元気を広めていくことを求めていた。ジェンドリン流に言えば、何でも細部の単位(ユニット)に解体して分析する近代科学の思考になれた現代人の行き詰まりを打開するには1人1人の主体(個人)とか、独立した固定的な性格から出発する思考ではなく、まず、インタラクション・ファースト(相互交流)ありきの視点に立って、絶えず、周りの人間や環境から刺激を受け、働きかけ、動いて変化していくプロセスを本質とみること。そのうえで、からだに解放感を感じるような何かをフォーカシングやTAEの手法で見つけ、それを単に個人の精神的な治癒や成長のみならず、社会への発信にも役立てていくことを望むだろう。

 私は、フォーカシングを人格の個人的成長や、心理的問題の解決方法と考えて、長年、学んできたが、近年は、仕事で役に立てられないかとも模索してきた。それは、社会の事象についてのフェルトセンスから文章を書くという作業だった。実際には、私の書くものをみるデスクが、なかなか理解してくれず、苦労の連続だったし、時間に追われる新聞記者という仕事の限界もあった。ただ、あらためて、そういう実感としての意味感覚を言葉にして、人に伝えることが、この閉塞した社会のあり方を変える革命的な一歩になるというジェンドリンの理論が、彼だけのものではなく、西洋哲学の系譜をふまえたものであることを、おぼろげながらたどることが、できた。

 一度ならず、二度、三度と読み直して、「暗在的含意の中に生起する」ものにもっと注意を向けられる人間になりたい。この書評は、ジェンドリン哲学入門と、こうせつコンサート、私の仕事などとの「交差」の中で生まれたが、この本のうちでも、読みやすかったのは、それぞれの筆者の経験との「交差」を通じて書かれた部分だったことも付け加えたい。私が、渡米してジェンドリンとインタビューした結果を記事に書いたときも、ジェンドリンの話した例を逐語的に書くよりは、長年の経験の中で、私が咀嚼した典型的な例を書くほうが、わかりやすいと言われて、大幅に書き換えた。この本でも、ジェンドリンのプロセスモデルを逐語的に解説した章は、読みにくかったし、難解なまま、???で残っているが、それ抜きでは、成り立たない本でもある。

韓国映画「夏の香り」を見て

  • 2010年5月18日

 ユン・ソクホ監督の映画「夏の香り」を見た。「冬のソナタ」「春のワルツ」「秋の童話」と並ぶ四季シリーズを見終えた。特に、夏の香りは、フェルトセンスが明確に表現されていた。

 主人公のヘフォンという女性は、子どものころから病弱で、心臓移植を受けて元気になる。このときに心臓を提供した女性の恋人が、もう1人の主人公、ユ・ミヌだ。ヘフォンとミヌは、すれ違いさまに、心臓が高鳴る。このドキドキという効果音は強調されて響く。やがて、二人はひかれあっていくが、ヘフォンには婚約者がいるし、ミヌを片思いする女性もいる。横やり中傷を受けて、二人は、ミヌがひかれたのは、前の恋人の心臓であり、ヘフォンではないとそれぞれ自分に言い聞かせるようにして、別れようとする。だが、苦しくなるばかり。こころを引き裂かれたように悩んだヘフォンは、免疫抑制剤を飲み忘れるようになり、心臓に重い負担がかかって倒れ、生死をさまよう。

 ミヌがヘフォンに言った「君の心臓は、君の中にあるんだ」は、「私が愛するのは君の心臓という部分ではなく、君全体なんだ」という意味だろう。これは、ジェンドリンの言う、現代科学がユニットへの還元主義に陥り、閉塞感に覆われているという主張と重なる。フォーカシングは、状況を含めた全体についての感じを大事にする。脳でも心臓などの臓器でもない、生育歴でも家族関係でも性格でもない、その人全体の置かれた状況を感じてみようとする。そうすると、ユニット=小さな側面=以外の大きなその人全体が見えてくる。アンが言う、ある部分の感じを「私の中の一部が感じている」と言い換えて、もっと大きな自分を感じてみようという教示とも重なる。

 ヘフォンは、2度目の移植手術を受け、今度はミヌの恋人ではない人の心臓の持ち主になる。ミヌとは別れたと、婚約者の前でも公言し、今後の恋愛はその新しい心臓=胸が高鳴る人が現れるまで待つという。ラストシーンで、ヘフォンとミヌは、大勢の人が雨傘を差してすれ違う中の二人としてすれ違う。そのとき、二人の心臓はともに高鳴り、顔を見つめあった。胸のときめきこそが愛である。頭で考えた、こうすべきとか、こう生きるべきとか、いう構造拘束的なものではない。そんなことをこの映画は、言わんとしていたように感じた。

ニュースペーパー・渡部又兵衛さんの講演

  • 2010年5月30日

政治や社会風刺のお笑いコント劇団「ザ・ニュースペーパー」の団長、渡部又兵衛(わたべ・またべい)さんの講演を聞いた。北海道新聞社員有志でつくる道新夜塾の主催。

糖尿病になり、足を切断しながらも、前向きに生きる姿に感動した。今の新聞に求めたいのは、「わかりやすさ」。ニュースをわかりやすく報道すること。さらに、記者の顔の見える記事を書くことだという。庶民の目線から、おかしさを笑いの種にする。得意の演目「さる高貴な方々」で、皇室を取り上げるのも、特定の思想や批判的立場からというより、庶民から見た、おかしなところ、変なところを演じているだけのようだ。

 まねするのは、その人の雰囲気だという。これは、その人の感じ(フェルトセンス)をつかんで、真似するということだろう。顔は似てなくても、化粧などでごまかし、しぐさとか、話し方とか、いわゆる、その人の「感じ」を表現するのだ。その人なら、言いそうなことをせりふとして言う。渡部さんは、高貴な方々で、美智子皇后の役を演じる。私が見たときは、皇后がお酒を飲んで、思うにまかせない息子らのことを愚痴るシーンで沸かせた。実際の美智子さんが、公の場で愚痴ることはない。だから、その人が言いそうなせりふという意味は、現実に私たちが知る場で言いそうなことというより、きっと、心の中ではこんな言葉に象徴されるような何かを感じているのだろうな、ということを舞台で言うことだ。

 ふだんは、あまり話さないような40~50代の男性が、公演後に渡辺さんに握手を求めてきて、「よかった」と言ってくれるのが、今の生きがいだと話していた。若い人も、公演で周りが笑っているのに、自分は笑えないので、新聞を読むようになったとか。庶民の立場から、権力者をわらう、そんな面白さがもっと、新聞にあっていい。あるいは、ニュースをかみくだいて、記者の言葉でわかりやく伝える、そんな記事がもっとあっていい。上ばかりみて、権力者の言葉をよくわからないのに、そのまま書くような記者は、修行が足りないし、そんな新聞なら衰退していってもやむをえまい。

 私はニュースペーパーの公演を東京と札幌で4回ほど見た。札幌公演を翌日に控え、病院で人工透析を終えたばかりの体で講演してくれた渡部さん。しかも、講演途中で、「首相が福島党首を罷免」という、張り出し用の特大新聞が届けられ、翌日の公演での福島瑞穂役のシナリオも練り直さないといけない身で、時間を割いてくれた。人を楽しませるのが生きがいだとしても、自分の体に無理をしないで、長く続けてほしいと願わずにいられなかった。

土江正司さんのワークショップ

  • 2010年5月30日

 札幌フォーカシングプロジェクトは5月29、30の両日、札幌エルプラザで、島根県から土江正司さんを招いて、「フォーカシング・エンカウンター」と題したワークショップを開いた。

 初日は、フォーカシングそのものについての説明があった。土江さんは、からだのいろいろな感じ、つまり、フォーカシング用語でいう「フェルトセンス」を、単に「感じ」と訳して表現する。その感じこそ、「神様」であり、全体的なもの、仏教でいう「自然の摂理(ダルマ)」だという。体はそのままを表しており、そこに全幅の信頼をおく。ふつう、人間はあれこれ思考を巡らせて、どっちが正しいとか、ニュースや親しい人の話に左右されたりするが、感じほど強力な正しい方向性を与えてくれるものはないという。悩んだりするのは、感じに信頼を置かずに、人の話とか、根拠のないものに惑わされているからだという。プレゼンスとは、感じの存在に気づき、それに巻き込まれず、眺め、受容し、理解しようとする認知。純粋に見て、ああそこにあるなあ、という状態だという。

 後の6人グループのセッションで、話し手になった私は、土江さんが持参した3体の小さな人形=シャベラーの1体を、自分の中の感じの一つとしてみた。左胸のあたりにむずむずとわきあがっている「黒いゴキブリのよう」な「少しイライラした感じ」と名付けて、シャベラーを胸にあてて対象化して眺めてみると、不思議により大きな全体の自分も感じられて、落ち着いていられた。プレゼンスに近付けたのだろう。

 二日目の甘え論の説明も面白かった。土江さんによると、もっとも基底の甘えは「つながりへの渇望」であり、それが満たされないときに、人は病的な癖や酒、暴力、薬、ゲーム、アニメなどにしがみつく。子供はこれが満たされていないと、特定の子としか遊ばない。つながりがしっかりしていないと、周りが見えない。たとえば、母親と安定したつながりが持てずに内在化できないとき、子供はつながってくれそうな先生や友人、家族の中の別の人を探すか、不完全な母とでもなんとかつながろうとする。

 甘えを自覚できない人は、甘えを態度に表すので、依存的に見られる。接するこっちが、不愉快になる。この迷惑ばかりかけている人は何を求めているのだろうか。「つながり」「受容」「理解」の三つしかない。つながりなら、5分だけでも話し相手になるとか、マッサージなど、つながりを実感できるケアをするといい。つながりの渇望が満たされると、次に周囲からの「受容」と「理解」を渇望するようになる。それらを期待しての自己アピールがうまくいかないとき、甘えに無自覚な人は、すねる、反抗する、怒る、落ち込むなどの態度を見せる。フォーカシング・エンカウンターは、受容、理解への期待をアピールでき、また他者のそうした期待を満たす技術を磨く場であるという。

 甘え上手な人は、心の力が蓄えられるので、明るくいられる、こころの天気も晴れている。ちょっと高いところから、自分を眺められる機能(プレゼンス)の発達により、自己理解、自己受容が定着すると、さらに甘えは満たされやすい。援助する相手に対して、洞察力を持ち、「この人はつながりを求めている」などとわかり、ここでしっかり、つながりを実感させようと、洞察的ケアをすること。

 土江さんは浄土宗の僧侶でもある。体は死んでも、心はつながっていると思える人は、極楽浄土に行けるという。これは、葬儀などでよく感じることだ。安定したつながりは、やがて内在化され、本物の信仰のように不動のものとなる。フォーカシングは、身体を通して、自然またはダルマ(法)との安定したつながりを実現すると、土江さんは説明した。そうありたいものだ。

 以上は、資料に加えて、土江さんが話したことの中で、とても参考になった部分の抜粋。

「フォーカシング指向カウンセリング」を読んで

  • 2010年6月 7日

 キャンペル・パートン著、伊藤義美訳の「フォーカシング指向カウンセリング」(コスモス・ライブラリー、2009年12月刊)を読んだ。

 この本は、イギリスでカウンセリングの入門書として発行されたというだけあって、基本的なことを幅広く網羅し、なおかつ簡潔に記述しているという点で優れている。

 とくに、最近、私が関心を持つジェンドリンの理論の概要をまとめている章が参考になった。彼の哲学を支えるアリストテレス、カント、ピアジェ、ミードの理論を紹介し、暗黙の哲学がジェンドリン1人の中から生まれたものでないことがわかる。今ここでの感じ、感情と、概念、象徴化の機能をいったり、来たりするのがフォーカシングの特徴であり、それこそ、植物も動物をも超えた人間独自の営みであることが書かれている。

 私たちの周りにも、感じてはいるけど、それがどういう意味を持つのか、言葉にできない人がいる一方で、概念化だけ進んで、ポンポン出てくる言葉が空虚に感じられる人もいる。新聞記者はどちらかという自分を含め、後者のタイプが多いかもしれない。両方を行き来することで、まさに生き生きした、その人にしかない人生を一歩先に進められるのだろう。

 パートンが謝辞で引用しているジェンドリンの言葉。「私たちの社会の主たる不調は、おそらく、社会があまりにもわずかな小休止しか許さず、私たちの体験過程に細やかな応答と対人的かかわりをあまにもわずかしか与えないことにある」(「体験過程と意味の創造」から)に、パートンがこの本を著した気持ちがこもっている。

 ジェンドリンの哲学は、機械論、原子論、医療モデル的な考えがまるですべてにあてはまるかのように、広まってしまった現代の人間を取り巻く困難を打開する糸口になるだろうという確信が、この本を読んでさらに深まった。人は生きている限り、人間同士や自然と相互作用する存在であり、直接的、瞬間的に感じることができ、感情を持つ存在でもある。そこが、機械と違い、メカニズムでは説明できないところだ。しかも、私たちは自分の置かれている状況を体験的に少し深いレベルで語ることによって、一歩、進んでいくことができる。

 こんなあたりまえのことなのに、今の社会は、明示的な目標があり、数字で測定可能な効果が示されたものだけが「科学的」「合理的」であるとして、まだ、はっきりしていない、あいまいな感じから出てくるものを尊重しようとしない。やはり、今の社会の大きな考え方から変わらなければならないのだろう。その代替案を示してくれているフォーカシングが、臨床現場のみならず、文明論的にも大きな意味があることをこのテキストは告げているようだ。

「自傷行為治療ガイド」を読んで

  • 2010年7月 9日 16:35

先進国で自傷行為が増えている中で、日々取り組んでいる治療者ら援助者や、家族などに進路を指し示す必読書である。著者のB.W.ウォルシュは、米国のNPO「治療共同体」のソーシャルワーカーとして治療実践を積み重ねてきた。本書は、自傷行為についての包括的テキストである「自傷行為」(ウォルシュ著、1988年刊行、2005年邦訳出版)の続編として2005年に書かれ、2007年に邦訳、出版された。臨床上の重要なテーマがあまねく取り上げられ、新しい知見も豊富に盛り込まれ、最新のガイドと言えよう。

セラピストや精神科医ら専門家向けの本ではあるが、親や家族ら周辺にいる人にも参考になる。「辛抱強く」というのが、ひとつのキーワードになるだろう。たとえば、自傷者の援助に携わる人たちが示す「陰性反応」(混乱して方向性を見失い、決断力が低下する、不安、恐怖、過度に同情的になったり、感情をこめすぎたり、あるいはイライラしたりするなど)について、「自傷行為の治療を行っていくうえでは、余計な感情を捨て去って辛抱強く対応していくことが、不可欠なのである」とする。

  援助者はいかなる態度で自傷と向き合うべきか。強い関心、激しい感情表出を伴う援助、苦悩、恐れ、ひるむ、ショックを受ける、避ける、非難するなどの反応は、自傷行為の2次的強化につながってしまうことがある。ひるみ、あとずさりしたあとで、自分がショックを受けたことを伝えるのは、自傷行為者に対して破壊的だ。なぜなら、自傷者はこれまで度重なる喪失と拒否を体験しているだけに、援助者のそうした反応は、すでに存在する「見捨てられ不安」をいっそう強く刺激してしまうからだという。

 控えめで冷静な態度がいい。いかにも心配でならないといった保護者的な反応は、養育を放棄され、無視・否定され、あるいは虐待されてきた者にきわめて大きな満足を与えてしまうからだ。中でも、大人たちが動転するような強い反応に満足感を覚える青年期の若者の場合は、非難やひるむような反応は、逆説的な報酬効果となってしまうこともあるという。

 全体として、自傷行為を起こす青少年の言動に対して、援助者や家族などに自然におこる反応に「ああ、胸の動悸が早くなっているなあ」などと気づき、深い呼吸を取り戻すなどして、身体を落ち着かせ、できるだけ、冷静で控えめな態度で接することを説いている。これは、簡単なようで難しい。過度に心配するのが自然な感情の流れだからである。そのためには、フォーカシングに引き寄せて言えば、身体に注意を向けてのヨガやリラックス、深呼吸をしたあと、心の整理(クリアリング・ア・スペース)をして、ちょうどいい距離からその気がかりな感じと接するという標準的な技法が役立つだろう。その感じが、私の中の一部になり、もっと大きな私全体からそれを感じることができたら、なおいい。この本で提言している「クライエントの言葉をそのまま戦略的に使用する」には伝え返しやインタラクティブの技法が役立つし、「敬意ある好奇心」を向けるには、自分の感じと一緒にいて、友達のように今どんなふうに感じているかを好奇心を向けて聴くというアン・ワイザーのマニュアルが向いているのではないか。

「自傷行為の理解と援助-故意に自分の健康を害する若者たち」を読んで

  • 2010年7月 9日

この本(日本評論社、2009年)の著者、松本俊彦さんは、国立精神・神経センター精神保健研究所の自殺実態分析室長でもある。日本の自殺予防の第一人者と言える。この本における主張は、「自傷行為とは、単に自らの皮膚を切るだけでなく、自分の意識から「つらい感情」「つらい出来事の記憶」も切り離して、何も起こらなかった、何も感じなかったことにする行為であり、同時に身体の痛みによって、心の痛みにふたをする行為でもあるということ。忘れてならないのは、自傷行為とは「つらい瞬間」を生き延びるために繰り返されながら、少しずつ、「死」を自らのほうへとたぐりよせてしまう行動であることだ。

 一般に自傷する若者は、第三者から頭ごなしに言われたり、決めつけられることが非常に嫌いだという。さまざまな虐待やいじめを通じて、理不尽に管理、支配されたり、自分の存在を否定された体験をもつ若者が少なくないことと関係あるだろう。援助者の管理的、支配的な発言に過敏であり、権威的な人物に嫌悪感を抱く傾向がある。その意味で、あくまで対等な対場で、「あなたのことが知りたい」ことが伝わるような姿勢で、臨むべきだ。 「切るのがやめられない」、「また切ってしまった」という発言に対しては、「今は切るか、切らないかよりも、信頼できる人に心を開けることのほうがずっと重要」といったことを伝えるといいという。

 「あなたがこれまで生きてきたということ、あなたという存在は正しい。ただ、ほんの少しだけ改善したほうがいい問題点があるだけだ」というメッセージを伝えたい。自傷行為の援助の中でさしあたって大事なことは、「自傷しないこと」ではなく、「援助を継続していること」だという。自殺のリスクが高いのは、援助関係からドロップアウトしやすいからで、大切なことは援助関係を継続していることである。

 メンタルヘルスの専門家は、事例検討会や研究会に参加したり、個別のスーパーバイザーに援助を求めることで、自分の日々の活動をねぎらわれ、ほめられ、あるいはまた助言を受けることで、自身の繊細な感性が摩耗しないようにしておくことが求められる。自傷を繰り返す若者への対応について、単に「巻き込まれているから、距離をとれ」とだけ助言する専門家がいるが、著者は「これほど無責任な助言はない」と考える。「距離をとれ」という真意は、相手の援助に没入するあまり、自分や相手の置かれた状況を客観的かつ冷静に見ることができなくなっているから、それができるように援助体制を整えるべきだということだと著者はみる。それなら、物理的、心理的に距離をとるのではなく、複数の援助者であたること、もしくは複数の援助チームをつくるべきだという主張はもっともである。著者は、再度、援助者には仲間-すなわち、サポーターやチームメートが必要、と訴える。 

 その意味で、この本で勧めているやり方を具体的にどうするかという段階で、フォーカシングが貢献できるのではないかという気がした。

「自傷とパーソナリティー障害」(川谷大治著、金剛出版、09年)を読んで

  • 2010年7月11日

この本は、長年、自傷行為や境界性人格障害の治療に取り組んできた開業医の手でまとめられた。

 自傷の治療のポイントは、自傷行為は行われるべきして行われたものなので、妥当性のある行為として受容することだという。と同時に、自傷行為を止めるように患者に変化を求める方法も必要だと言う。

 家族には、感情をコントロールして、子供の気持ちに耳を傾けることを勧めるという。その際、自傷患者は他人を攻撃することが苦手で自分に怒りを向けていること、幼いときから「見捨てられ」「自分は悪い子」空想を持っていること、を理解させる。家族の心配はもっともだが、家族には「患者が困っている」という視点が欠けているのも事実であるという。だから、「(患者は)何に困っているでしょうかね」と直面化させて、家族に理解と共感という視点を持たせることを勧めている。

 自傷患者の面接の基本については、「中立的に聴く」ことを挙げる。成長に必要な新しい経験を求めてくるので、注意深く、しかもあせらずに待つことが重要であると説く。著者は関係性を育てる心理療法の技法として、ウィニコットなどを挙げて説明している。患者の中で二者択一や一人二役になっている二つの部分をそれぞれ、自分の一部として、その両方の言い分を聴くことが大切だろう。それが、セラピストが、ふたつにわかれた思考に巻き込まれず、「矛盾を抱える」能力を患者の中に育てていくことになるだろう。

 フォーカシングのアン・ワイザーが言っている、「私の中の一部(何か)」の言い分を二つ、三つについて聴いて、両方が自分に「~なってほしくない」、こと、「~なってほしい」、ことを聴いて、「~なってほしい」、を体で同時に感じてみるという技法が思い出される。そこには、もっと全体的で大きな自分が存在する。

坂野雄二先生の認知行動療法実践講座

  • 2010年7月18日

道医療大の坂野雄二教授を講師とした認知行動療法の実践講座に参加した。(7月18日・かでる)

 坂野先生によると、心理・精神療法は大きく3つに分けられる。認知行動療法と、精神力動的療法、人間性心理学である。50年後には、おそらく、精神力動的・精神分析は哲学としては残っても実践はなくなっているだろうという。私はふだん、ヒューマニスティックサイコロジー(人間性心理学)の中のフォーカシングにいそしんでいる。坂野先生もこのロジャーズに始まる人間性心理学は、どんな心理療法家も用いる基礎として生き残るだろうという。その基礎を学ぶ者として、近年、臨床や産業現場で効果があると言われる認知行動療法について、頭の整理を兼ねて学んだ。

 坂野さんが何度も強調したのは、はじめに心の奥底にある原因を仮定しないこと。それは、健康になってから気づけばいいことだから。それと、スモールステップの原理である。カウンセラーや治療者はたくさんのことを言いすぎるが、これをやったら、次にこれをやりやすいだろうという行動の連鎖を考えるといい。休職中の行動を聴くと、体力が落ちていることがある。満員電車に慣れていないかもしれない。まずは、そのへんから練習してみる。復職支援で見落としやすのも、体力が落ちていることで、気力のせいにしないこと。スモールステップは、励まして挑戦させることではなく、あなたは失敗を積み重ねているのではなくて、少しずつ進歩している、とみること。「一週間出ただけでへとへとです」とクライエントが言うと、「頑張ったね」とほめて、「体力的にどう?」と聴く。「くたびれます」と言うと、「そうだね、一週間ぶりに電車に乗るとくたびれるね」と共感的に応答する。

 健康になってから、何かきっかけがあったのかなあ、と聴いてみる。同じようなことが再びあったときの対処の仕方を学ぶ。3日年休をとるとか、カウンセラーのところに行くとか、健康管理室に行って話しておくとか。

 患者は、できているところに目を向けるのが苦手。「少し…」とかを考えず、全か無かの発想が多い。こうした非適応的な振る舞いや考え方を合理的に修正し、セルフコントロールを体系的に学び、自立した生活を送れるよう援助するのが認定行動療法である。

 平成19年の自殺者3万人のうち、健康問題が約半数を占める。WHOによると、うつ病の有病率は10%、気分のふさぎこむ状態が慢性的に2年以上続く気分変調症が2%、うつ病に近い状態が18%。合計すると、抑うつ反応を30%の人が示している。気分変調症は、うつがそれほど強くないので、カウンセリングや認知行動療法が使える。自傷を繰り返す人の自殺率は9%と、うつより高い。

 不眠をどう治すか。本当に眠くなるまで布団に入らないこと。パジャマに着替えないこと。余計なことを布団の中で考える時間を少なくする。朝は決まった時間に起きる。できれば8時まで。起きたらカーテンを開ける。眠くなるメラトニンという物質は、太陽光にあたるとできる。昼寝は午後3時~5時に10分~30分。それ以上寝ると、メラトニンが消費される。

 うつ病患者の職場復帰は、短時間出勤で慣れる時間が長いほうが、うまくいっている。坂野先生は、もとのように仕事できるようになるまで、1年1~2カ月はかかると患者に言っている。気分の改善は早めに起きるが、おっくうさが残る。復帰してしばらくは、おっくうさの残る中で仕事をしている。「やる気がない」とか上司が批判するとよくない。リハビリ出勤はゆったいめがよく、3カ月程度、半日出勤ぐらいでいい。

 問題点は残された課題と理解することが大切。クライエントが「そんなのできません」と言うと「やったらどうなるか、みてきてごらん」という。「大丈夫、やってごらん。大丈夫なことを確認してきて」と。やったあと、どうだったかを確認する。うつの人は、たくさんの解決法を探すのが苦手。これはこうすべきだ、というのが強い。それがだめなときに自分を責める。立ち止まってもう一度考え、たくさんのアイデアを出してみると、その中に良いアイデアがある。 

 いろいろと参考になった。

日笠摩子さんのフォーカシング夏のワークショップ

  • 2010年8月 1日

 今回のワークショップでは、フォーカサーから聴き方を学ぶ「フォーカサー・アズ・ティーチャー」(FAT)が大きなテーマだった。参加者の半数近くが、人に話を聴いてもらってのフォーカシング体験がほとんどないことから2日目の午前中に予定外に日笠さんが話した、フォーカシングとは何か、どんな人に、どのように役立てるかの説明が、わかりやすく、参考になった。メモから以下に抜粋した。

 フォーカシングとは、自分の感じていることに注意を向けること。そうしていると、描写したくなったり、行動したくなったり、次のステップが見つかったり、が起きてくる。自分の納得するものだったら、「ああそうだったんだ」と、ほっとしたり、開けたりする。ふつうに私たちの生活の中で起きている自然現象で、それは、過去、現在、未来の状況についての感じだったりする。人はときどき次のステップがわからなかったり、行き詰ったり、失敗したり、批判されたりすると、ある人に言われたことが、回ってぐるぐるする。その一方で、苦しいので、感じなくしたり、逃げたりする。1人で全体を感じられなくなる。ぐるぐる回って、苦しみの中に入り込んでいる人が相談に来る人に多い。自分の体験と、ちょうどいい距離がとれなくなった時に、技法としてのフォーカシングを知っていると役立つ。だれかに話を聴いてもらうと、距離をとりながら、その人に受け止めてもらうことで、自分も受け止められる。

 ジェンドリンにとって一番大事なのは、関係。ご本人に力がある。それを確認できる傾聴の仕方がFAT。次に大事なのが傾聴。3番目がフォーカシングなどの各種心理療法。フォーカシングが自然にできない人、傾聴だけでは感じに触れられない人にこそ、技法としてのフォーカシングを教える。摂食障害やうつの人には、フォーカシングを教えることが必要になる。クライエントが感じに触れることができていなくて教えると、どうしても上下関係ができる。ジェンドリンは2段階教示を使う。1段階目は「フォーカシングをやりましょう」。2段階目は「これをやってみることについて、やっていいかなあ、どうかなあ、と感じてみよう」。「いい」なら、やってみる。「怖い」なら、「その怖さともっとつきあってみませんか」。これは、FATで、「伝え返しをします、それがぴったりか確かめて」というのと同じ構造。

 FATでは、リスナーがなんて伝え返していいかわからないとき、とりあえず、浮かんできたものを言葉にして、フォーカサーに修正してもらう。修正された方が、よりいいという確信。私は、日常や仕事でも、とりあえず、言葉にして、相手に聴いてもらったり、読んでもらったりする時がある。相手が違うと感じたら、修正してもらう方が、より創造的な次のステップが見つかるという姿勢だ。語尾に「~かな」とか「~な感じ」とって、相手の様子をみることもある。一番現場にいる人、現場に近い人に聴いて、確かめ、クライエント本人に聴いてみようという姿勢は、これからも大事にしたい。本人が一番、自分のフェルトセンスを知っているから。本人しかその言葉でぴったり合っているとか、「そうだ」という身体感覚は、わからないはずだから。

「子ども達とフォーカシング」を読んで

  • 2010年8月28日

  この本は、子どもとフォーカシングの分野で世界の第一人者であるマルタの著書を日本こどもフォーカシング・アソシエイツ(JCFA)の天羽さんら3人の仲間が訳した待望の書です。日本の学校や幼稚園、保育所、施設などの先生と、子どもの保護者にとって、具体的にどのように子どもに接すると、効果が上がるかを丁寧に書いてあります。これを読んで多くの人がフォーカシングを日常の仕事や親子関係に生かして、心理臨床分野が中心だったフォーカシング活用のすそ野が広がることが期待されます。

 マルタがこの本で伝えたいのは、フォーカシングは、子ども自身が自己の体験の中の深い意味を見つけるのを助ける特別なスキルであること。そして、大人がすることは子ども達が自分のからだの感じを感じるよう援助しながら、子どもの言葉や行動、感情などを繰り返し伝え返していくことだということです。

すべてのものに対して優しい態度で接するフォーカシング的態度の重要性も強調しています。大人が「ええ、でも」とか「そうね、だけど」を付けて答えるのも、この本にあるように、フォーカシング的態度に反するのですね。大人は、しばしば自分の望む方向に会話を持っていこうとしたり、アドバイスを提供しがちです。子どもが内側で知っているたくさんのことを失わないよう気をつけないといけません。フォーカシング的態度を習得した先生や保育者なら、ちょっとしたフォーカシング的介入を毎日の生活の中で使うことによって、子どもの成長や学習の障害になるような多くの問題を解決できると書いています。

 児童心理療法士のマルタは、20年以上にわたり、オランダをはじめ、日本、ハンガリー、ルーマニア、アイスランド、スリナムなどで子どもとフォーカシングを教えてきました。その豊富な実例が随所にはさまれて、この本をわかりやすくしています。

 忙しい先生たちにとっては、子どもたちが「具合悪い」などと訴えてきたら、まず、それが体のどのへんなのかを聞く。次にそれがどんな感じかを聞く。そして、それは何を伝えたいかを尋ねるという三つのステップでいいというのは、フォーカシングを簡単に取り入れやすくするでしょう。

 からだのフェルトセンスを象徴化するのに、大人は言葉を使いますが、子ども達は絵や好きな色、動きなどで表現する方がなじみやすいというのは、うなづけます。上手、下手と関係なく、体の実感とつながった絵をたくさん紹介しています。子どもたちはたいてい、そういう絵を描いただけで、気持ちが外に置けて、元気になるそうです。

 コツもいくつか。たとえば、子ども達には問題をたった二つの文で語ってもらう。聞くほうも長い話に時間をとられたくないでしょうし、ただ、子どもが話し込むだけでも役に立たないからです。注意を内側に向けてもらうときは「こんにちは、いい子ね」と自分に言ってもらう。「こんにちは」の後に自分の名前を言ってもらうのもいいです。絵にするときは「あなたにとって安心できるのは何色ですか」と、助けてくれる色を思い浮かべるとこから始めるのもいいそうです。

 私は、子どもとフォーカシングでよく言われる「ミラーリング」について、「伝え返し」とどう違うのか、疑問に思っていました。それについても明快に書かれています。「ミラーリングとは、話し手の言葉や意味することを伝え返すこと、または、ある人が言っていることの要点を繰り返し、伝え返すこと」。つまり、イコールなのです。「ミラーリングは単なるおうむ返しではない」という見出しの項では、「ミラーリングをしながら、自分の内側で子どもがどのように考え、気づき、どんな気持かを想像します。少し強調したり言い換えます。あなたの理解しようとする気持ちを示すことによって、おうむ返しよりもっと力強い何かを示すことができるのです」と説明しています。そのあと、子どもの話の本質、行動、要約、感情的質感、肯定、目に見える変化、発見をそれぞれミラーリングする要領が示されています。

 「保護者のために」という第12章は、親たち向けです。親が十分な注意を向けているかいないかは、全体的な態度で子ども達にはっきり分かるというのは、思い当たります。父親と娘の異なるやり方として、「権威的な解決」「甘い対応」「共感的反応」の3つが例示され、父親と娘のこころが共感的に触れ合ったときにお互いが満足する-それは子どもが聞いてもらえたと感じた時、大人が理解されたと感じる時に生じるという考察に、うんうんと納得しました。

 この本は、繰り返し読まれ、取り入れられることによって、ふだん何かに追われるように働き、暮らしている先生や親たちの心理的負担を少なくし、子ども達の幸せにもつながるでしょう。

(マルタ・スタペルツ&エリック・フェルリーデ著

天羽和子監訳、矢野キエ+酒井久実代共訳

コスモス・ライブラリー 2010年)

フォーカサーの集いin福岡

  • 2010年10月31日 20:31

 日本フォーカシング協会の総会と、フォーカサーの集いが10月29日から31日まで、福岡市西新の九州大学西新プラザで開かれました。北海道から沖縄まで全国から約130人が参加しました。

 集いでは、5つのセッション枠があり、それぞれ4つから6つのセッション(出店)が同時に開かれました。

 私は「身体症状とフォーカシング」、「トラウマからの回復」、「漢字フォーカシング」、「自分の居場所」、「若年者就職支援へのフォーカシングを活用した臨床例」に出ました。身体症状は、森川さんの出店。からだの不調を感じている部分についてのフォーカシングです。今度、札幌の例会でもやってみましょう。教示シートがあります。「たとえば、身体のその部分に、音を贈るとしたら、どんな音ですか。しばらく、やさしくその音を響かせて、その場所に贈ってみましょう」という教示のときに、私にはジャズかブルースのようなゆったりした音楽が聞こえてきました。一方、「かゆみ」の症状には、その部分を描写すると役立つなど、コツも教わりました。

 土江さんによる 「トラウマ」は、出口の見えないトンネルの中でもがいていても、希望があることを教えられました。心を果物に例えて描写してみるのは、いいですね。

 池見さんによる「漢字フォーカシング」は、実際に池見さんが上海でやったワークショップで、中国人には、フェルトセンスを漢字1字で表してもらい、その漢字=感じ=について、質問していく方法が効果を上げたことが紹介されました。参加者7人でグループになり、相手を漢字1字で表現した紙を交換しました。私は「勤」「直」「確」「誠」「趣」「索」をもらいました。最初の四つは仕事柄、そう見えるんだろうなあと自分でも納得いくところ。「趣」は、「ひらひらがたくさんある。趣がある」、「索」は「常に真実を求めている」という意味だとうかがい、うれしかったです。

 「自分の居場所」は、大澤さんと得丸さんの出店。ワークシートの日本語がとってもわかりやすく改良されていて、私はペアになった方の力も借りて、素直な自分の心に近付けたような、気がしています。

 若年者就職支援への適用は、就職への不安の中にいる若者に、不安の中で一番目、二番目に強いものをひとつずつ体の外に出してもらい、出したあとの体のすっきり感を味わってもらう、クリアリング・ア・スペースの応用です。いかに、今の若者が就職活動で「不安」を抱いているかを思うと、もっと、広まってほしいです。

 それにしても、九州のフォーカシングの層の厚さには今更ながら感動しました。日本フォーカシングプロフェッショナル交流会の池見会長は、「日本は世界の中で最もフォーカシングが理想的に発展している国」といい、大学の研究者20人が専門にしていることを挙げていました。九州大でフォーカシングを日本に広めようと、ジェンドリンの著作を翻訳し、たくさんの若手を育てた村山正治先生のおかげでしょうし、それを引き継いでいる九大の吉良さん、福盛さん、福岡大の田村さん、九州産業大の森川さんら現職の先生たちのご努力のたまものでしょう。

漢字フォーカシング

  • 2010年11月 7日

 「漢字フォーカシング」について、日本フォーカシング協会フォーカサーの集い2010で、池見陽関西大教授の出店形式の発表を聴きました。

 池見さんが、上海でのワークショップで実施して、中国人に好評だったそうです。来年は九州大の吉良先生も上海でWSをやるそうです。中国の人口から考えて、爆発的にフォーカシングが広がる可能性を秘めているプロジェクトです。

 やり方はフェルトセンスを感じて、漢字1文字で表現するのです。その漢字を自分の中で響かせ、「この感じはいったい何だろう」「この感じ(漢字)が何か伝えているとしたら?」「この感じは何を必要としているだろう」などと問いかけます。あとは、気づいたことを大切に受け取ります。

実際に小グループで体験しました。短い時間しか触れ合ってなくても、その人を表すとどんな漢字1文字になるのかを思いながら話を聞くと、聞いてもらった人にとって、うれしい言葉が出てきます。

  

 ほかに、池見さんが挙げた例だと、会社のプレッシャーを感じていたら、「怖」。漢和辞書を引くと、びくびくと心配する。「上司が怖いんだ」とわかり、本当に自分はできるのかなあという感じもある。

 「悩」がぴったりだった例

 「何に悩んでいるのかなあ」と聞く。

 「この悩みは何を伝えているのかなあ」

 そうすると、「自分を信じこませようとしている、自分に気付いている」

 「大丈夫なかなあ」という自分もあるけど、そっちを見ないようにして、不安な部分を隠そうとしている、ことに気付く。

 傷つくような感じが出てきたら、エンカウンターのように進めます。

  フェルトセンスが出てこないとき、「たとえば、これは」と、リスナーから言って、漢和辞書を一緒に見てみる。遊びのような要素を入れる。何回か、辞書を引いてやり直していく。

 とりあえず、思いついたのを書いてやってみると楽です。

 TAEと似てきます。

若者の就職支援へのフォーカシングの活用

  • 2010年11月 7日

就職支援とフォーカシングについて、フォーカサーの集い2010で発表を聴きました。

 

 ニートやフリーターと言われる若者がなぜ、就職を決めきれないのかというと、ネットの就職サイトなど外的要因に左右され、自分が納得する本当の選択ができていないことがあります。大学などで行われている就職活動も、あいさつ、マナー、適性検査、自己分析、応募書類の書き方、面接練習などテクニックに近く、「心」の部分が入っていません。「心」からの言葉はその言葉以上のものを相手に伝えます。そこに、フォーカシングの出番があるのです。筑紫フォーカシング研究会の発表者(Fさん)は、就職支援を仕事とし、フォーカシングのクリアリング・ア・スペース(心の空間づくり)と連詩を活用しています。

■教示の実際は次の通りです。

1)深呼吸、リラックス

2)足に注意を向ける

3)今、就活に直面していますね。お金がほしい。好きな仕事がしたい。ごちゃごちゃな感情があるでしょう。

4)今、現在、全く不安なく進んでいますか?(ないという人はゼロ)

5)一番大きな不安を思い浮かべてください。

6)その時に、体の内側でどう感じますか?内側とは、血管が流れて、心臓があるところで、その内側に注意を向けてみましょう

7)今、どういう感じですか(話せそうな人に話してもらう)

8)それを体から出すイメージを思い浮かべてください

9)2番目に就職活動が不安な状況を思い出してください…体の外に置いてもらう

10)もしかしたら、たくさんあると思います。ただ、二つ出したところはスペースが空いているでしょう。その空いたスペースを感じてみてください。

11)ゆっくりと深呼吸して、自分に戻ってきてください

12)目を開けていいです

(時間は30~40分前後)

■動機づけのフレーズ

立派な言葉で応募書類を書けても、最後は面接で採否が決まる。「心がこもっていない」とだめ。心のこもった言葉かどうかで、採否が決まる。どうやったら、心のこもった言葉を話せるのか。これから、練習してみよう。フォーカシングという言葉をできるだけ使わない。イチローやサッカー日本代表の岡田監督、ゴルフの宮里藍らのメンタルトレーニングを題材にとると、理解が早いそうです。たとえば、宮里は、ないものねだりをせず、自分は自分でいいと、スイングの前にその日の内側に感じるものを感じる時間をとるようになってから、試合運びがうまくなり、好スコアにつながったなど。

トラウマからの回復

  • 2010年11月 8日

 フォーカサーの集いの出店に、松江の臨床心理士でスクールカウンセラーの土江正司さんが「トラウマ(からの回復)」を開いた。そこで、土江さんらが話したことをまとめてみる。

 1)最初から「トラウマ」を聞かない。何かありそうですね。心を果物に例えたら?なんで果物かというと、気持ちが柔らかくなるから。心は食べてこんなにおいしいですよ。純粋ですばらしいもの、それが心。

 2)その果物はどんな状態?しばらく、その果物を眺めていると、どうしたい?実際の果物は腐ったら元に戻らないけど、「心の果物は元に戻る」と教示する。「半分腐っている」という子が多い。そのまま抱えていると、「少し腐ったのが良くなった」という。

 トラウマを受けた深く、傷ついているものを外にいったん取り出して、戻すと、すでに書きかえられている。トラウマはその人を守っているもの、悲しみとか、怒りとか。持っていないといけない。よく「桃」をイメージする。種を真綿で包むように。トラウマを受けた人に接する。

  眺めていると変化する。それってどういうできごとだったのか理解する。あのとき、そうだった傷つけた人の心情、立場も理解する。自分はただ驚いて、傷ついていた。余裕をもって安全なところからそれを眺められるようになることが大事。トラウマがあると、かたくなったり、腐ったりの状況がある。果物にたとえると、視覚的に確認できる。そうなっている部分にきちっと向き合うことが第一歩。向き合わないと、ずっと存在する。なるべく、楽に向き合う。避けていたものと。セラピストが背中を押してあげる。「ついているよ」と。

 人に傷つけられた人は、人の間でしか回復されないとはわかっている。でも、怖いから近づけない。安全な人が、セラピストや家族やパートナーらに1人いるといい。そこにたどりつくまでが大変。もがき苦しむ時期がある。「それは、あなた独自の体験だけど、だれでも、そういう体験をしたら、こうなりますよね」。かためない。「トラウマ」という言葉をセラピストが使わない。子供になら「傷ついているよね」。いろんなことを言われて、マヒしている。子供の柔らかいところの一部が、固くなっているところがある。「いじめられる程度の人間だ」というストーリーを作ってしまう。人に癒やされなきゃいけないのに、人と距離をとってしまう。自分が癒やされないことを許してほしい、そんな気持ちを抱えている。「君はいじめられる必要はない」と、何度も言ってもらって回復した人もいる。

ロジャーズとジェンドリン

  • 2010年11月22日

 DVDの視聴という形だったが、久しぶりに末武康弘・法政大教授の「来談者中心療法」の講義を聞けて、頭の整理に役立った。さすがに、客観的に研究する学者らしく「事実」と「夢想」の部分をはっきり分けて、話していた。大部分は、事実なのだが、末武さんが「これは夢想です」と前置きして語った部分が面白かった。

 そのひとつは、来談者中心療法の創設者であるカール・ロジャーズ・シカゴ大学教授と、彼に学んだ哲学畑の大学院生ユージン・ジェンドリンの対話である。ロジャーズ先生は受容、共感、自己一致(純粋性)のカウンセラーの3条件を提示したことで知られるが、「生命体の知覚的・直観的な体験の全体」を重視していた。それは、直接、からだで感じられるものである。その時、ジェンドリンは言った。「それは、フェルトfelt なんとか」じゃないですか、と。本当に2人の間にそういう会話があったかどうかはわからない。話をわかりやすくするための、末武さんの「夢想」である。この「フェルト」に何かをくっつける言葉は、哲学の世界でよく使われていたという。

 それで、ジェンドリンはフォーカシングの中核概念であるところの「フェルトセンス」(からだで感じられた何か意味がありそうな感覚・こころの実感)という言葉をつくったのだなと、私はあらためて理解した。

 もう一つ、事実の部分で、印象に残ったのは、ロジャーズは晩年、来談者中心、パーソンセンタード療法を現実の政治や社会の対立を克服する方向に応用しようとし、エンカウンターグループに力を入れたが、ノーベル平和賞の話が持ち上がったとき、転んで重傷を負い、延命治療を望まない意思表示もしていたので、平和賞を受けないまま亡くなったということだ。ロジャーズの追悼論文集の巻頭言を書いたジェンドリンのフォーカシング研究所が今、アフガニスタンなど紛争地域や、チリの大規模地震被災地の住民の心の健康回復にフォーカシングを生かす試みに力点を置いていることとも重なって見える。

 ここからは、私の夢想だが、もし、ジェンドリンがノーベル平和賞を受ければ、学校で体育が教えられているように、世界中でフォーカシングが教えられるときが来るだろう。その時には、日本にもこんなにたくさんフォーカシング愛好者がいて、日々の生活や仕事に生かしていると言いたい。ロジャーズの「静かなる革命」を実践している人こそ、一番弟子のジェンドリンであり、その著作にひかれて世界中にたくさんのフォーカサー(フォーカシングをする人)の輪が広がっている。 それは、カウンセリングや心理学を特定の専門家のものではなく、市民だれもが使えるものにしようとして、無料でジェンドリンの著作や関連の論文をウェブを通じて公開しているフォーカシング研究所の姿勢でもある。日本フォーカシング協会も、だれでも加入できて、専従職員がゼロ。ニュースレター刊行など活動に伴う人件費や役員報酬などはゼロでも、500人余りのメンバーが喜々として活動している、それ自体、希有な団体かもしれない。

就職活動を考える

  • 2010年12月 5日

 今年も、札大で授業をする日が近づいてきました。その準備を兼ねて、学生が興味を持ちそうな新聞記事をスクラップしています。目につくのが、就職活動(就活)関係です。道新も「就活2010氷河期再来」のワッペンをつけて、時々、大きな記事を載せています。

 私が学生時代は、4年生の10月が就職選考・試験の解禁だったのに、今は4月に早まり、実質的には3年生の後期から、学生が浮き足立って、セミナーや先輩の会社訪問などに出かけているようです。3年の後期と言えば、これから専門課程の勉強が本格化する時期。じっくり学ぶ時間も精神的余裕もなくして、就活に明け暮れ、それでも4年生の内定率は10月末現在で6割を切るというのですから、本当に今の学生はかわいそうです。

 不安や焦りをみんな抱えているようです。欧米のように、卒業後に就職試験を受け、いろいろ社会経験を積んで、20代後半で一生の仕事を決めるというようになればいいと思います。

 今の「就活」に「これでいいのか」!と、怒りを表明するデモもありました。昨年、北海道で始まり、今年はネットで広まり、全国4都市で同時に行われたそうです。参加した学生が、「少し楽になった」と語っていたのが印象に残りました。自分の中のモヤモヤを言葉や行動で表すと、からだが楽になったのでしょう。

 「若者に元気になってほしい、何かいい言葉はないかな」と思い巡らしました。ひとつ、昨年のフォーカシング国際会議で、ナダ・ルーというカナダ人が言っていたことを思い出しました。ビートルズが世界で大ヒットしたのは、彼らの音楽を待ち望んでいた世界の若者の感覚とマッチしたからだということです。人間は、一人一人が原子のような機械的存在ではありません。呼吸し、食べ、飲み、愛され、環境や周りの人との相互交渉が先にありきの存在です。きっと、今の若者1人1人がすでに持っているものを、世界のどこかに待ち望んでいる人たちがいるというのです。まだ、それが何なのかは、1人1人の若者にははっきりしていないでしょうが、何かが、変わろうとする社会の側から求められているというのです。先ほどのデモもその後、さまざまの就活についての議論が新聞紙面をにぎわせるきっかけになっていると思うと、大きな意味を持つでしょう。

 若者が、きょうより明日は良くなると希望を持てる日本になるよう、社会の先輩の1人として、私もなすべき何かを追い求めていきたいです。具体的には、新聞記事は、実例の宝庫であり、そこから、一般論としてのパターンを見つけていく作業を学生と一緒にしようと思います。パターンは、法則のようなもので、ほかのことにもあてはまるので、自分の意見やコメントを述べるのに役立ちます。ワンパターンは悪いことのように言われますが、ひとつの記事から、複数のパターンを見つけることもできます。なんか、少し、わくわくしてきました。

新聞記事からパターンを見つける

  • 2010年12月14日 23:16

  2010年12月14日、札幌大学の経済学部で、新聞記事を読んで、そこから一般的に言えることを見つける授業をしました。

 昨夏、札幌でワークショップを開いた得丸智子さん(日本女子体育大教授)の著書「TAEによる文章表現ワークブック」にある「資料を使って論じよう」(P90)と「パターンとは」(p66)、「社会に提言しよう」(P71)、さらに斎藤孝明治大教授の「新聞で学力を伸ばす」(朝日新書)を参考に授業案を組み立てました。

 この日の北海道新聞朝刊を学生1人に1部ずつ配り、自分の気になった記事を選び、パターンを見つける授業です。

以下に授業のレジメと当日の内容を書きます。

 1)簡単な自己紹介

2)ネット時代の今、なぜ新聞か?・若者の国語能力の低下 PISA(国際的学力テスト)で読解力が、日本の15歳は低下。自由記述の問いに白紙の回答が多い。新聞を読む生徒は、得点が高かった。

・文科省は来年度から国語授業小学校6%、中学校10%増やす。教科書でも新聞を活用する

・ネットは情報が多様、大量だが、玉石混交で真偽は保証されない

・新聞では、事実と意見の区別が明確で、事実を間違えた時は訂正を出す

  事実を基に、感じ、考える力を養うのが、授業の目的

3)記事を読んでみる

学生が今日の新聞を広げ、気になる記事、興味ある記事をいくつか選ぶ。

4)その中から、北海道とどこかで関係があったり、道民が出てくるもので、自分の気になる記事を一つ選ぶ=「もっとも印象強い記事はどれかな」=感じる力

5)その記事を要約して書く。大事なところに下線を引く

 6)その記事を読みながら、「パターン」=「一般的表現」「抽象的表現」「世の中、あるいは、人生の法則のようなもの」を見いだす。ウサギとカメの物語から出てくるパターンは「油断すると失敗しますよ」。抽象度を高めると具体度は低くなるという関係=考える力

7)5人グループになり、グループ内でパターンを発表して、模造紙にマジックで書く。それを黒板にはって、みんなで共有する

8)そのうちいくつかをとりあげる。書いた学生にどの記事のことか、どうしてそう言えるのかを、話してもらう。

9)みんなが選んだ記事が今の北海道を表しているとして、「新聞記事から見た北海道の今」はどう見えるのか、「パターン」を列挙する形でまとめる。 

  就活の記事からは「人とのかかわりが大切」。TPPの記事からは「少数の切り捨てはよくない」。ノーベル賞の鈴木さんの記事からは「日々こつこつ努力することが大切」など、面白いパターンがたくさん見つけられました。学生なりに、社会の多様なできごとに関心を抱き、そこから、ほかの出来事もあてはまるパターンを取り出せることに、私も感動しました。もっと新聞を読んで、事実を比較し、自分の論旨が明確な意見や文章を書けるようになってほしいと思います。

「セラピスト・フォーカシング」を読んで

  • 2010年12月24日
  •  九州大教授の吉良安之さんが書いた「セラピスト・フォーカシング」(岩崎学術出版社)を読みました。吉良さんは、1955年生まれで、私と同年代であることもあって、最後の方に書いてあるセラピスト人生後半の危機に向き合う中で、この方法が生まれてきたというところが最も響いてきました。

 フェルトセンスを手掛かりに自分と向き合う作業を吉良さん自身が続けてきた成果として、この本ができたというのです。自分の内側に感じられる、不愉快な重さやけだるさ、混濁感をフォーカシング的な感じ方で繰り返し感じ続けて、それを文字に書いたり、絵にしてみたり。吉良さんの内的作業は1~2年に及び、いつの間にか、内面にあった焦燥感や、ねっとりした気味の悪い重たさは薄らいでいったというのです。その中で、セラピスト・フォーカシングのアイデアを得たというところに静かな感動を覚えました。それが、多くのセラピストに役立つ方法であることを確かめる中で、筆者の意欲や気力が回復してきたというのです。

 ジェンドリン流に言うと、フェルトセンスに触れ続けることによって、それに含意されている次の一歩を見い出すというプロセスが生じたという説明を読むに至って、なるほど、と膝を打つ思いです。私も、あることのフェルトセンスを感じ続けてきたことによって、この1年間で、焦りや迷い、重い感じが薄らぎ、見えてきたものがあるからです。

 この本は、セラピストのクライエントとの面接の振り返りにフォーカシングを用いる方法を紹介しています。最初の方で吉良さんが強調しているように、体験の流れを推進するような方法が大切にされ、実践され、それを促すようなやりとりが行われていれば、フォーカシングの過程が生じているのです。単なる技法としての手順の紹介ではなく、ジェンドリンの哲学を深く理解したうえでの方法であることが、うかがえます。

 また、筆者の豊富な心理療法面接の経験が基盤になっていることも、随所に表れています。セラピストに生じる感情について、つらく苦しい話を繰り返し語るクライエントがいても、クライエントがこちらに寄りかかってるようなニュアンスがあり、こちらもそれにこたえたいような気持ちが起こる場合と、クライエントがどこかに消えていってしまいそうな、自分とのつながりの希薄さを感じる場合を筆者は区別しました。そして、後者は、危機的状況も起こりうることを念頭に置いて、丁寧かつ注意深い対応をしていく必要がある-というあたりに、熟達したセラピスト吉良さんを感じました。

 臨床心理や援助職、あるいは、職業ではなくても、現にだれかを援助する立場にいる人たちに読んでほしい本です。

ドイツ流の地球環境保全

  • 2011年2月20日

 BS朝日で、ドイツの環境保護を訪ねる旅もの番組を見た。ソーラーハウスの徹底した太陽光発電は、日本の比ではない。国の政策誘導と民間の努力がうまくマッチしていた。

 これまで、自分がやってきたエコな生活は、エコカー(ハイブリッド車)、自転車通勤、登山と散歩、歩くスキーでの自然とのふれあいなど。2月末に富良野に引っ越してからは、より自然に近い環境の中で、エコな暮らしや仕事をしている人と出会い、広く紹介していきたい。自分自身もなるべく近くに行く時は、車に乗らず、自転車を活用しよう。地域でとれた野菜や果物、肉、卵などを自らの調理や外食選びに心がけたい。

 やがては、きょうの番組に出てきたような、太陽光をふんだんに取り入れ、発電にも生かしたパッシブソーラーハウスを建てて、自然に感謝し、人の心や古いものを大切にする暮らしをしたい。2013年のスイスでのフォーカシング国際会議に出席したついでにでもドイツやスイスに旅行したい。有名なライン川下りや、ドイツの黒い森も訪ねてみたい。

 フォーカシングも、人間の生物、特に忘れがちな植物的側面に気づくことで、本来の生き方に近づいていく、あるいは、本質に立ち戻るような、エコライフの哲学版みたいところがある。

富良野初日

  • 2011年2月28日

 札幌から車で富良野へ。家族4人で到着。小鳥を忘れてきた。フラノマルシェで昼食。荷ほどきで追われた一日だったが、良かったのは、森の中に小さな工芸品店が並ぶニングルテラスで、エゾリスかエゾノモモンガを見つけたこと。木を上り下りしていて、本当に森の中にいると実感した。倉本聡のドラマ「優しい時間」に出てきた喫茶「森の時計」は外観だけ拝見。「森の時計はゆっくり進む。人間社会の時計はどんどん進む」だったか忘れたが、スピードが早くなる一方の現代社会にあって、からだの感じを確かめるフォーカシングも、ゆっくりした生命体としての人間に戻って、本当の自分を確かめるようなところがあるなあと思う。

 引っ越しの当日、忙しさにまぎれて、朝、いつも恒例の数分間のクリアリングアスペース(心の整理)をしなかった。そのせいで、大事な小鳥を忘れてきたのかもしれないが、この小鳥を溺愛するほど愛情を注いできた母が札幌の家でもうちょっと世話をしたいというので、少し任せることにした。

倉本聰さんと会う

  • 2011年4月14日

 脚本家の倉本總さんと会いました。

 やはり、とっても素敵な方でした。自分に正直で、権威におもねず、年輪を感じさせても、年齢を感じさせない、こういう日本人に私はなりたいというような人でした。

 会った場所は、「北の国から」にも出てきたという喫茶店。私はけさ、緊張して早起きして、北の峰の自然に近い道を散歩したのです。「優しい時間」で、寺尾聡が演じたマスターのようなマスターが現実にいる喫茶店「森の時計」にほど近い小道です。

 森の時計はゆっくりと進む、だけど、人間の時計はどんどん速くなる。これは、倉本さんのメッセージですが、フォーカシングでも、ジェンドリンが言っていますよね。私たちは、今の時代だからこそ、心の内側に焦点を当て、もっと少しずつ、進んでいく、植物のような生き方を大事にしないといけませんね。静かで、穏やかな時間がそこにあります。

 東京生まれの倉本さんは、北海道民、とりわけ、札幌以外の地方に住む人々の持つ感覚を鋭敏にとらえていらっしゃいました。それは、「闇を知っている」感じです。都会のネオンサインの下にはない、暗闇の世界。ジェンドリンの言う「沈黙」「暗黒」の世界。そこには、怖がり屋の動物たちがひそかに息づいているかもしれない。自然の摂理への畏敬の念も持ちあわせていたアイヌ民族への敬意にもつながります。そんな思いをはせた、倉本さんとの出会い。きょうの日を一生忘れないかもしれません。

アンから吉良さんのWSへ

  • 2011年8月 8日

アンのワークショップが終わりました。きょう(8日)は、養護教諭のみなさんにフォーカシングを紹介させていただきました。アンのWSの中で、気にいったけど、自分ではうまくできなかった描写する練習をしました。アンが袋の中から、何かをくれて、目をつぶってフォーカサーが質感を描写するやつです。

私は、何度も、そのものの名前をつぶやいていました。この練習は、名前を言わずに、肌触りとか、質感を表現するワークだと、あとで知ったのです。きょうの参加者は、そのへんは上手にされていましたが、やはり、名前を言いたくなると言っていました。

 名前を言うと、レッテルをはったことになり、もう、それが全部わかったつもりになりがちです。でも、同じ名前でも、実感しているところは、ずいぶん、人によって違うわけで、フェルトセンスの描写にはそこが大切なのでしょう。

 質問や感想をお聞きすると、さすがに養護の先生は子どもの心と体に触れているせいか、フォーカシングの本質に迫っておられました。次の吉良さんのワークショップの宣伝もちょっぴりしました。

 吉良さんの粘土とセラピストフォーカシングのWSは、暑さや冬の飛行機欠航も気にせず、気楽に迎えられたらいいですね。

仲代達矢と倉本聰

  • 2011年8月13日

先週、仲代達也と倉本總の共同インタビューに参加した。倉本總の19年前に書いた脚本「學」をWOWOWが来年新春の特別ドラマとして制作している撮影の合間に実現した。この中で、倉本は、仲代に演じる役についての「履歴」を与え、それが仲代をとても楽にしているという話になった。この場合は、祖父、風間信一とは、こういう人物という履歴を、脚本に出てこない分を含めて、書いて、仲代にプレゼントしたということ。

 仲代は、その履歴から、人物のフェルトセンスを感じて、役作りに集中しているということなのだろう。そうしないと、台本のセリフを表面的に覚えて、演じるだけで終わってしまうと、仲代も言っていた。やはり、もっと深い、演技をするために、日本を代表する俳優の一人の仲代は、脚本家から履歴をもらい、そのフェルトセンスを内側で感じながら、演じているということと、理解した。

鉢路氏の大臣辞任は残念、無念…

  • 2011年9月15日 00:28

 北海道選出の代議士、鉢路氏が経済産業大臣をわずか1週間で辞任した。

 福島県の立ち入り禁止区域を「死のまち」と、たとえた発言と、オフレコの記者懇談で被災地に行ったことがないという毎日新聞記者に防護服で近寄り、放射能をうつす趣旨の発言をしたのが、理由とされる。いわば、悪ふざけだろうが、その前後の記者とのやりとりはとても、まじめで、発言全体を通して読むと、なんら問題はない。真意は、被災地の大変さを思い、何とかしたいという感じが伝わってくる。

 鉢路氏の発言全体からフェルトセンスを感じてみると、人間性に欠ける大臣失格の人物とは、言えないだろう。それを、表面的な言葉の一部だけをとらえて、毎日新聞だけでなく、全国のテレビ、新聞、さらには与党の幹部までが辞任を迫った光景は、私には、非常に残念で、鉢路氏の無念さに共感した。

 しかも、鉢路氏自身が、放射能をうつすうんぬんの発言をした記憶がないという。鉢路氏は、大臣就任が決まった翌日の土曜も、さっそく役所に出勤するなど、人一倍張り切っていた。午後11時半に議員宿舎に帰宅し、入口に待ち構えていた記者に、オフレコ(記事にしない、背景説明)の気安さから、慎重さを欠いた行動をとってしまったのだろう。これは、十分反省には値するが、鉢路氏の政治力を発揮するまたとないポストを与えられた直後の高揚感も手伝っての言いすぎ、やりすぎ、勇み足のたぐいと、許してあげてもいいのではないか。

 人間が言葉で内面を表せるのは、ほんの一部という、フォーカシングに慣れ親しんだ人にはあたりまえのことが、若い記者たちには、からだで身についていなかったとしても不思議ではない。

 ジャーナリストにもフォーカシングを学んでほしいと、つねつね感じていることが、また起きた。

 鉢路さんには、今のペースで働けば、からだにさわって、短命に終わったかもしれないと、慰めるしかないだろう。

倉本聰さんとフォーカシング的な何か

  • 2011年9月24日 00:14

 「北の国から」30周年記念トークショーが9月17日、富良野演劇工場で開かれた。俳優の中嶋朋子さん、竹下景子さん、脚本家の倉本總さんらが「北の国から」の名場面を振り返って対談した。

 倉本さんの発言の中には、フォーカシング的なものがちりばめられていた。もちろん、ご本人はフォーカシングを御存じないだろうけど。

 たとえば、観光客が選んだベスト1シーン、黒板純が父親からの1万円札2枚を運転手の中畑木材社長から受け取った、就職で富良野から東京へ出発するトラック車中の場面について、倉本さんは、自分が母親からもらった500円札をずっと使えなかった思い出から書いたと語った。そして、「お金には、金額で表す価値とは違う何かがあって、そっちが大事」と言った。ドラマでは、父親の労働の跡である泥のついたそのお札を、純は上京後も大事にして、そのために、人を傷つけてさえしまう。何かは、something であり、人の手に渡してものを受け取ったり、あるいは、働いて対価にもらったりするという経済価値以上の何か、ここでは、親の愛情をさすのだろう。

 もうひとつ、名場面に選ばれたシーンに、ラーメン屋で父、五郎が、子どもの純が食べている最中のラーメンのどんぶりを閉店時間だからと下げようとした店員に怒る場面がある。ここは、純が五郎に悪さ(火事の原因になるシャツを干した)の告白をすれば、ストーリーはなりたつのに、「へそがない」気がして、付け足したという。「へそ」=中心部分=大事な何かだろう。告白すれば、終わりではない。どんなに純がわるいことをしたとわかっても、父親は許すし、外敵(店員)に対して、結束して守ろうとする親の愛情を書きたかったのだろう。五郎が怒ったあと、床に落ちて割れたラーメンどんぶりを親子で拾い集めるシーンは、象徴的で見ていて泣かせた。

 やはり、創作をする人は、意識せず、フォーカシングをしていて、それが名作につながるのだと、あらためて感じさせられた。こういう哲学的なところがあるので、「北の国から」は、放送開始から30年たっても、不朽の名作として、ロケ地には今も訪れるファンが絶えないのだろう。

夜型暮らしとエネルギー

  • 2011年10月10日 21:47

 昨夜は、TVドラマ「北の国から」放送開始からちょうど30年の日。倉本總の記念講演会が、富良野であった。

 その中で、日本という国は、すぐれたスーパーカーをつくったが、ブレーキとバックギアをつけ忘れたと話した。スーパーカーはたとえで、国民全体のありようをさす。たえず、前年比増を目指して頑張ってきたことだ。この社会では、ゆっくりスピードを落とすことや、後ろに下がることがとても難しい。みんなが、前へ前へと走っているから、どうしても、同じ方向に頑張らない自分を責める気持ちが起きてしまう。うまいたとえだ。

 最近、倉本さんがよく使う統計をこの日も発表した。日本人はだんだん寝る時間が遅くなり、朝日が昇ってからも少し寝ているので、自然のリズムに合わない暮らしになりつつあること。父親の帰宅時間も北欧やフランスよりかなり遅く、家族がばらばらになっていること。「北の国から」で主人公、黒板五郎が「暗くなったら寝るんです」と、電気のない暮らしに不満を言う子どもに教える場面があるが、五郎の生き方とますます反対の方向に私たちは進んできて、その先に電気不足、原発に頼る生活があると喝破していた。地球の石油資源は、あと40年分しかなく、それは富士山の3~4号目から上の容積しかないという。石油がなくなるときは、必ず、私たちの子どもや孫の時代には来るわけで、だからこそ、福島第一原発のような事故もありうると覚悟して原発に頼るのか、生活の便利さは落ちて、早く寝て早く起きる生活に戻っても、原発に頼らない社会を目指すのかの岐路にあるという話は説得力があった。

 太陽のリズム通りに起きて働き、休み、寝る、家族の時間も大切にするという、あたりまえの生活に戻る必要を力説していた。そして、人間の体の半分以上は水分であり、酸素を1分に十数回吸わないと生きられない。この大切な水と酸素はいずれも木の葉っぱがつくること。これは、倉本さんが、富良野塾を解散後、富良野自然塾を開いて、教えていることだ。この人間の植物的側面におもいを致すというあたりは、ジェンドリンのプロセスモデルの哲学とも重なるところで、とても興味があった。

心に届く言葉

  • 2011年10月31日 00:02

富良野塾OBユニットの演劇「ら抜きの殺意」を見た。通し稽古に次いで、2回目だった。今回感じたのは、相手の心に届く言葉の難しさ。いろんな役割やパターンに沿った言葉はあるけど、相手の心に届く言葉を話せる人って、そういないのではないか。フォーカシングで、実感にぴったりの言葉を探す作業もある意味で、ひとつのパターンかもしれない。「…」ていうか、「…」というか、う~ん…と時間をかけて、からだの感じと合う言葉を見つけていく。このことの体験過程的な意味を理解している相手なら、いいが、理解していない相手にとっては、これも、いらだちの原因になったり、せいぜいよくて、一つの修行とか実験としか映らない。もっと、すっと自分の心に沿った言葉を話せて、相手の心にも届かないだろうか。

きょうは、そのあと、大平まゆみさんのバイオリンコンサートも聴いて、すっかり、芸術の秋深まりぬだった。その中で、「奇跡が起きますように」と星に願いを込める曲があった。(星に願いを)。みんなが、より幸せになるように、今は不可能に思えることも、かなうような「奇跡」が起きてほしい。

倉本總原作・脚本の「學」の試写を見た

  • 2011年12月 8日 00:22

 富良野在住の脚本家、倉本總さんの原作、脚本で、WOWOWが来年元日午後8時から放送する「學」の特別試写会を富良野演劇工場で見た。(12月5日)

 學は13歳で東京で一人暮らし。両親はアメリカ在住のエリート商社マン。學はパソコンを勝手にいじった近所の少女にかっとなり、突き飛ばして、殺してしまう。両親は自殺。富良野在住の祖父母が學を引き取り、1年間、十勝岳連峰で學のサバイバル訓練をして、祖父がカナダのロッキー山脈に連れてくるというストーリーだ。

 祖父はがんの末期に近く、ロッキーの山頂近くで割腹自殺し、學は一人で、祖父に託された祖母への手紙を届けようと、山中を歩きまわる。祖父に習った時は、聞く耳を持たずという態度だったが、いざ、自分のいる場所を星の位置から割り出し、ヘビや虫も食べないと生きていけない環境に置かれて、祖父の教えを思い出す。「人間の脳みそは、コンピューターより、優れているんだ」「人生はすばらしい。生きろ」という祖父のメッセージが、見る者に響いてくる。

 私は、このサバイバルシーンで、父を思い出した。私の父は、太平洋戦争中、フィリピンの山中で、食べるものがない中、米軍から逃げながら歩き回った。戦友が次々に栄養失調で死んでいく中で、敗残兵が協力して、現地の農家の畑に夜、忍び込んで農作物を食べ、おそらく、ヘビもトカゲも食べて生き延びたのだろう。父には、人間の極限を知り尽くした何事にも動じない大きさがあった。生きるのに何が大事か。お金ではない。頑張りの精神と、仲間との協力だと父は、人生の体験記に書き遺した。息子2人を育て上げ、第2の職場を65歳で退職後は運動を日課としながらも、「体に無理をしない」生き方を実践し、87歳まで見事に生きた。日常の生活は質素だった。決して借金を作らず、自分で最後まで命に責任を持てないと言って、大好きな犬を飼うこともなかった。

 私は今の57歳という年齢で、倉本さんの作品を通じて、父と出会えたことをうれしく思う。そして、パソコンよりもすばらしい人間の「からだ」、からだで覚えることの大切さ、今生きている命、人生のすばらしさ、自然の中での直接体験を子どもに教えることの必要性など、フォーカシングのジェンドリン哲学にも通じるものを感じる。

 ロッキー山脈の雄大な景色の中で展開するこの物語を多くの人に見てもらいたい。WOWOWの加入者だけでなく、初放送後もさまざまの形で、長く見られてほしい。まさに、倉本ドラマの最高峰を見る思いがした。倉本さん、ありがとうございます。

「マロース」の舞台を見た

  • 2012年1月15日 20:19

 富良野在住のシナリオライター倉本總さん、作、演出の「マロース」が1月14日から29日まで、富良野演劇工場でロングラン公演をしている。12日に通し稽古をみた。

  この劇は、倉本さん作のNHKFMラジオドラマが原作。富良野塾OBの富良野グループが出演、スタッフをしており、昨年1月に次いで2冬目のステージになる。

 今回、倉本さんは東日本大震災を経て、台本を大幅に書き換えた。表現者として、震災をどう表現するかにさっそく取り組んだところに敬服する。まず、岩手県陸前高田市から津波で家族や恋人を失った元漁師がやってくる。彼は、この道南のまちで、水鳥を大量に殺す仕事を請け負う。鳥インフルエンザを疑った役場からの依頼だ。彼は、震災で命の重みを痛いほど味わったからだで、さらに、罪もない鳥たちをガスで「虐殺」する仕事をしたことで、精神的に少しおかしくなってしまう。今も鳥たちの悲鳴が聞こえるというのだ。意味のない仕事をしたという実感を語るあたりは、心の実感(フォーカシングでいうところのフェルトセンス)が良く出ている。

 しかも、きっかけとなった鳥の死は、鳥ウイルスではなく、人間が不法投棄した農薬の残りが化学反応を起こして毒物が生まれたせいではないかという研究者の説が、だんだんと重みを増してくる。ドラマは、ミステリー仕立ての展開をたどっていく。その一方で、元漁師を慰めようとして、小さな恋心を抱く喫茶店女性店員や、幽霊が出るというネット情報でパワースポットではないかと押し寄せる若者群像も描かれ、娯楽的な要素もふんだんに盛り込まれている。重く深いテーマを暗示しながら、それを甘い菓子でくるんで、楽しみながら見せる倉本ドラマの真骨頂といえるだろう。

養護教員研修会でフォーカシングを教えた資料

  • 2012年3月 4日 23:04

 フォーカシングについて

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Ⅰ はじめに

Ⅱ フォーカシングについて

 練習1:心の天気

Ⅲ 「今、生きている」という感じについて

 練習2:あなたはある植物です

 練習3:描写する、レッテルを貼るのではなく

Ⅳ フェルトセンスを感じる練習

Ⅴ 保健室におけるフォーカシングの応用について

Ⅵ まとめにかえて(問い合わせ先・参考文献)

Ⅰ はじめに

Ⅱ フォーカシングについて ジェンドリンの紹介、フェルトセンス(felt sense)とは

 練習1:心の天気(自己の内面に触れることになじみ、ぴったりな感じを無理なく表現)

1)楽に座って首や肩の力を抜きます。目をつむって、ふうーとゆっくり息を吐きましょう。ゆったり呼吸しながら身体の緊張を緩めていきます。

2) 胸のあたりを感じながら、「自分の心は今、スカッと晴れているかな、それとも、どんよりと曇っているかなあ」と自分に優しく問いかけてみましょう。

3)感じがつかめたら、色鉛筆で描き始める。景色が出てきたり、ただ何色かで塗りつぶしたくなってもOK。晴れがよくて雨が悪いということもないので、感じるままに。

4)描いたものをもう一度眺めて、自分の心をぴったり表現できているか、照らし合わせてみる。何かが足りない、ちょっと違うと感じたら、加筆修正してください。

5)余白や裏にこの絵の題名と、描いてみて気づいたことや感想を書きましょう。

Ⅲ 「今、生きているという感じ」について

 近代科学は考えることが一番大事。思考は生に十分な情報を与えてくれない。すべて科学で見えるという立場では人間は観察者になっている。現実は生きているというのは、体験し、参加し、属するという立場。ちょっと止まって、からだの内側から、生きているという感じを感じてみましょう。

 練習2:あなたがある植物だと想像してみましょう。

花とか野菜とか。根っこを通じて栄養が入っているのを感じます。太陽があなたを照らして、成長するのに不可欠な資源を与えてくれます。雨が降らないと、どうなるでしょうか。ついに雨が降ると、どんなことが起こるでしょうか。わたしたちのからだは、私たちにとって何が正しいか知っています。将来の方向性を知っています。私たちが必要とする何かが欠けているとき、私たちのからだは、その欠けているものを感じます。

 練習3:描写する

 パートナーを見つけて近くに座りましょう。どちらが先にフォーカサーになるか。ふたりとも目を閉じて、椅子に支えられている感じを感じていましょう。フォーカサーは両手を開いて、手の平を上に向けます。あるものを受け取ります。見てはいけません。どのように描写しようか感じていましょう。何であるか言わないように。質感がどのようなものかを言いましょう。パートナーはそのまま伝え返してください。ベルの音が聞こえるまで続けて何かが新しい質感が感じられるかに注意しましょう。交代しましょう。

Ⅳ フェルトセンスを感じる練習

 ある人のことや、ある状況のことなど、あなたの人生や生活におけるなじみのある問題を一つ選びましょう。あとで、話しても大丈夫なものを選んでください。上村がガイド。

 何に気づきましたか。何かあなたを驚かせたことがありましたか。

Ⅴ 保健室におけるフォーカシングの応用について

(以下、省略)

「手の治癒力」を読んで

  • 2012年5月24日 01:01

桜美林大学准教授の山口創さんが書いた「手の治癒力」(草思社)を読んだ。5月28日出版とあるので、新しい本だ。なぜ、マッサージをしてもらうと、「癒やし」を感じらるのか。オキシトシンなどの物質の測定結果など、最新の科学的知見ももとに、説き起こしている。皮膚感覚や身体感覚、身体と心についても書いており、フォオーカシングの理論ともよく合っている。ふれあい、きずなの大切さを今の日本人に再確認させるうえでも、タイムリーな好著と言えるだろう。抽象的な言葉の意味だけでない、ふれあいの必要性をあらためて実感した。

高橋尚子さんと倉本さんの対談~描写と愛情

  • 2012年6月12日 22:51

Qちゃんこと、マラソンの高橋尚子さんと倉本總さんの対談が6月12日、富良野演劇工場と富良野自然塾で行われた。このようすは、7月にBS-TBS日曜午後11時からの「子どもだったころ」で5回に分けて放送される。

 高橋さんの言葉の中で印象的だったのは、両親から子ども時代、細かい表現を求められたということだ。たとえば、「うれしい」なら、「何がうれしかったのか」を言えと。「怖かった」なら、「その状況を言え」と、細かい表現の仕方を求められたという。これは、フォーカシングでいうところの描写にあたる。「うれしい」「こわかった」という気持ちにどっぷり浸るのではなく、それと適当な距離をとって、眺めて、描写する。それによって、より実感に近い言葉、表現を探っていく。

 それと、高橋さんはおばあちゃん子で、今でも、祖母のくれたお年玉の通帳を大事にしていて、それを見ると、祖母を思い出すという。祖母の愛情と、両親の教育を受けて、日本人初の陸上金メダリストが育っていったと、思うと、感慨深い。この番組は、倉本さんの、深い質問によって、ゲストの含蓄ある答えが聞かれて、面白い。

体の力に前進の一歩

  • 2012年6月12日 22:55

6月16日から富良野演劇工場で開演する富良野グループの芝居「明日、悲別で」を取材に、宮城県からTV局と新聞記者が来ていました。(6月8日取材)

宮城テレビの斎藤靖江プロデューサーは、震災後、被災者を励まそう、元気づけようと、県内で頑張っている人を取り上げる番組を随分作ってきましたが、県内でも被災地によって被害の程度は違い、家族によっても違い、県民がバラバラになっていく現状に限界を感じていました。そんなとき、7月に宮城県をはじめ東北3県で無料公演される「明日、悲別で」に出会い、富良野へ2泊3日の取材を3度も重ねるうちに、見えてきた答えがあるそうです。この芝居では、廃坑跡に「希望」のカプセルを見つけようとする人も、そこに原発の廃棄物という「絶望」を埋めようとする人も、最後に一つになり、彼らのご先祖さまたちとも一体になります。故郷を思う気持ちがあれば、いったんそこを離れてばらばらになっても、最後は一つになれるというメッセージに救いを見出したそうです。

 新聞記者は、被災地区の住民がボランティアで出している「復興新聞」の編集長、格井さんです。格井さんは、この芝居のテーマである、人間の本当の希望は、体の中のエネルギーを使うことにある、ということを、希望を失いかけている、持ちたくても持てないでいる被災者に届けたいと思ったそうです。からだの中の前向きのエネルギーというと、フォーカシングでいう前進する小さな一歩、ステップではないでしょうか。この芝居を書いた倉本總さんは、このテーマを米国の作家、アーサー・ヘイリーの「エネルギー」から得たといいます。

 2人から、被災者に伝えたいものを求めて富良野まで来ている、前向きのエネルギーを感じました。生命のエネルギーです。これこそ、倉本さんと富良野グループが、この芝居で伝えたいものでしょう。倉本さんや俳優に肉薄取材する二人に、「あなたたちも、こんないい芝居が地元にあるのをもっと伝えては」と、励まされたような気がしました。

表現ワークショップ

  • 2012年8月28日 22:27

8月21日と28日夜、富良野演劇工場で開かれた「表現ワークショップ」に参加した。

講師は、太田竜介演劇工場長。2日間を通じて、「ワークショップ」という言葉に影響されたせいか、人の個人的話の内容を覚えていない自分にがくぜんとした。ふだん、フォーカシングのワークショップでは、名前は名札で確認し、話の中身は、心をこめて聴いても、その場限りとして、できるだけ忘れるようにする。今回は、前回自己紹介した参加者の氏名や話の内容を覚えているかを聞かれ、自分が最も覚えていなかった。

 最近は、仕事でも、人の名前が覚えられないし、年のせいとは思っているが、相手に失礼なので、せめて名前を覚える努力ぐらいはしたいなと思った。相手の話していないことまで、聞き手の聞きたいことを質問してもよい時間があり、フォーカシング的には少し抵抗あった。ただ、表現ということでは、絵や、身体(ジェスチャー)あるいは、オーラで伝える練習は、面白かった。ジェスチャーは、演劇的才能のある人は、感覚的にも上手だし、それを見てあてる能力も「すごい」と感じた。自分にそれがないと少し再認識した

 太田さんと参加者の皆様、いろいろとお世話になりました。ボケ防止のためにも、なるべく殻にこもらず、どんな人とも対等にちょうどいい距離でコミュニケーションをとる大切さをあらためて感じたワークショップだった。こころを開くには、場の安全感が大事と、フォーカシングでよく教わることの意味を、知らない人が多い場でなかなか心を開けないでいる自分を見て別の形で体験したと言えるかもしれない。

日野原さんの「創める」

  • 2012年9月25日 22:53

上富良野町で開かれた日野原重明さんの健康づくり講演会を取材した関係で、日野原さんの色紙をいただいた。一生の宝物にして、とりあえず、職場に飾ろうと思う。

「創(はじ)める」と書かれている。100歳の日野原さんは、あと10日間ほどで101歳になる。何歳でも、新しいことを始める(創める)ことを元気いっぱい勧めていた。今から、30年ほど前、朝日新聞に「老いを創める」というエッセイを連載されていた。老いをマイナスととらえず、定年後は自由に使える時間が増えるととらえ、どんどん人生をデザインし、創造していこうという趣旨のエッセイで、当時、評判を呼んだ。今回の講演でも、1時間たちっぱなしで話し、著書へのサインも200人に40分間も応じた。ゴルフも俳句も近年始めたという。私も、あきらめず、新しいことを始めたい。それが、クリエイティブ(創造的)なものなら、なおいい。

倉本さんとフォーカシング

  • 2012年9月29日 23:41

脚本家の倉本總さんとのインタビューを昨年11月から今年5月まで合計25時間重ねた取材記録を、本や新聞の記事にする作業を黙々と続けている。その中で、録音記録にある倉本さんの話し方が、「Aというか、Bというか、Cのような…」と、実にフォーカシング的であることに、あらためて感じいっている。もちろん、ご本人は、フォーカシングという言葉も知らず、自然に、いつもの話し方をされているだけなのかもしれない。こちらは、できるだけ、倉本さんの心のひだに寄り添うようにして聴こうとしていた。こちらの質問というより、むしろ、前に倉本さんが言ったことを伝え返すような確認の言葉のあとで、倉本さんの語りがだんだん深まっていくことが多かった。その時の話し方が、前記のように、フェルトセンスに触れながら、ぴったりの言葉を探していく、まさにフォーカシング的なプロセスだった。倉本さんのドラマが「深い」と言われるのは、こんな、自然にフォーカシング的営為を重ねている日常があるからなのだろう。

フォーカサーの集いの副産物

  • 2012年11月19日 23:20

私は今回の集いに、地元富良野在住者2人に声をかけた。二人ともフォーカシングは初めてだったが、一人は参加してくれ、もう一人の方は、都合がつかず、参加されなかったが、私が勧めた本を読んでくれて、池見陽さんの「心のメッセージ」がわかりやすくてよかったと感想を伝えてくれた。

私も、池見さんの発表を集いで聴き逃したことの後悔もあって、今、この講談社現代新書を読みなおしている。そして、自分の仕事や生活を豊かにするために、フォーカシングを始めたのに、それを使っていない日常に思い起こしている。あらためて基本から学ぶと、とても新鮮だ。もうひとつ、以前に札幌でワークショップを開いていただいた井上澄子さんの出店に出て、自分自身のフォーカシングを深めてみたかった。千葉で行われる合宿にはなかなか行けそうにないが、SFPの例会か何かの機会に、もっと自分自身の成長のためにフォーカシングを役立てていきたい。あるいは、リスナーやガイドとしてもフォーカシングの真髄を発揮した聴き方、支え方をしていきたい。

ユーミンから発想、良い記事とは

  • 2012年12月 5日 22:43

このブログの題名にした「ハロー マイフレンド」というのは、ユーミンの曲だが、ユーミンのデビュー40周年アルバムが発売された。NHKテレビで知り、さっそく、購入した。

ユーミンの挑戦は、いつも、松任谷正隆さんという夫が側にいてからこそ可能になり、その二人とも今でもとても若々しいのが、刺激になった。曲の歌詞は、そのときどきで、たぶん、このブログを始めた時の自分には、あの歌詞がぴったりきたのだろう。今回のアルバムの中では、最後の「青い影」がず~んと心に響いてきた。この曲は、私の青春時代、繰り返し聴いた。ユーミンもそうだったし、今回のアルバム制作で、英国に行って、その歌を歌っていた歌手と一緒に録音したことをテレビで知り、うれしかった。つまり、夢を40周年に実現したわけで、サラリーマン生活に終わりが見えてきている自分にとって、仕事の夢をこれからかなえられるなんて、とても素敵なことに見えた。

 仕事の夢、なんだろう。新聞記者らしく、属に「提灯記事」という、政治や経済的に力のある人におもねる記事ばかり書くのではなく、読者の立場に立って、自分の新鮮な感覚(フォーカシングでいうフェルトセンス)を大事にした記事を書くこと、あるいは、同僚の若い記者に書くよう促し、書いたらほめることかもしれない。そういう意味で、ささやかだが、明日の富良野版のトップを飾る記事は(掲載前なので詳細は書けないが)良かったと思う。こんにちは、私の読者の皆様。皆様に満足いただける記事をかけているでしょうか。

「勇気100%に励まされ」

  • 2013年2月26日 03:47

入りたての合唱団で「勇気100%」(「忍たま乱太郎」より)をうたうたびに、じわ~と感じるものがある。

「がっかりして、めそめそして、どうしたんだい 太陽みたいに笑う きみはどこだい」という出だしでソプラノが歌うフレーズに、今の自分がとても励まされている。母が重い病気とわかり、今、私は結構、自分で自分自身を責めている。ああすれば…、こうすれば…(良かった、母は病気にならないか、なっても、軽いか、もっと早く気づけたのでは)。でも、選ばなかった道を後悔しても、始まらない。

後段に「まだ涙だけで終わるときじゃないだろう」とあるのも、今できること、これからできることでベストを尽くそうという気にさせてくれる。歌い終わると、なんか、本当に生きる勇気をもらったような。フォーカシングとはあまり関係ないけど、自分を責めて、身体を粗末にすることは、だれも望んじゃいないはず。母自身が、私からみて父、母からみて夫を亡くしてから、ずっと、夫の最期の時期に適切な対応をできなかったことで自分を責め、身体を粗末にしてきた、と話していた。人間なのだから、すべて見通せなくても、少なくても、その時、その時にベストを思える選択をして、あとは、運を神に任せて、頑張るしかないのかもしれない。そんな意味で、どんな時も、精神的にも肉体的にも「からだ」を大切にする、からだからのメッセージを聴こうとする、自分に優しいフォーカシング的態度が、今の自分に必要なのだろう。

傾聴の大切さ

  • 2013年2月27日 00:21

 2月26日、旭川いのちの電話の開設者が、富良野市保健センターで講演した。自殺予防には、たとえ素人でも、一生懸命につらさを受け止めて傾聴すれば、力になれるという趣旨だった。精神科医がとかく、すぐに「うつ病」などと診断名をつけ、患者の話を受け止めて傾聴する時間がないのに対して、素人のボランティアだからこそできる、いのちの電話の良さがわかった。もちろん、今の精神科医は、傾聴が何より大切なことはよくわかっている。ただ、診療時間と患者数との関係の中で、できないだけだろう。

 私も、自分の抱えている問題を電話で、ある人に傾聴してもらい、今日も、なんとか、バランス感覚を取り戻して仕事に向かうことができた。聴いてくれた人は、カウンセラーでも臨床心理士でなくても、いいわけで、ただ、傾聴するだけで、話し手から言うと、聴いてもらっているということがわかって、自分の内側に触れながら話すだけで、整理がついていくということ。それにプラスして、小さく低いトーンで、「それでいいと思うよ」という一言をもらえたのが、心強かった。ジェンドリンは、どうして、傾聴が人間の内面的な成長を促すプロセスを進展させるのかについて、フォーカシングの理論をまとめ、そうした聴き方について、学べるようにした功績は大きい。まだ、日本では、そこまでは、一般的に広く知られておらず、傾聴の聴き方がどういうものかを5つの選択の中から、教えるという段階にとどまっていることが多い気がする。だんだんと、医療現場や心理職などから、一般に広まっていってほしい。

母が永眠、最期まで感謝の言葉

  • 2013年4月22日 22:29

2013年4月14日(日)午前11時50分ごろ、母由美子が東札幌病院のホスピス病棟で永眠しました。87歳でした。呼吸困難の苦しみを少しでも軽減しようと、看護師さんが懸命に投薬をしてくれました。最期の朝は、いよいよ、血中酸素濃度が下がりだしたので、頻繁に見に来てくれ、呼吸が浅くなったのを見て、弟をすぐ呼ぶように言ってくれました。その10数分後、最期の息をして、永遠に母の呼吸は止まってしまいました。

母は亡くなる1週間前まで、起き上がって食事を完全に食べ、それができなくなってからも、見舞いに来る人や看護師みんなに「ありがとう」と言い続けました。「来てくれて、ありがとう」だったり、「お花を買ってきてくれてありがとう」だったり。最期は私のよびかけに「パパ」と、最愛の夫を思い浮かべたようです。私が買ってきた花を見ながら、真剣にスケッチしていた姿が忘れられません。「私も好きなことをするから、おまえも、こんな病院にぐずぐずしていないで行ける場所があるなら、好きなことをしてきなさい」と、いつも母らしい言葉で送り出してくれました。その言葉に甘えて、フォーカシングのワークショップや例会に顔を出したのですが、そのときに母がどんなに病魔に侵されて体が苦しかったのかを思うと、至らない自分の罪深さを感じずにはいられません。母さんに生んでもらい、愛情こめて育てられ、俺は幸せだったよ、と、意識がなくなる直前の母には伝えました。わかってくれたでしょうか。いつか、俺も父と母のいった世界に必ず、いくから、待っててね、幸せに二人で暮らしていてね。母の言葉を大事にして、俺も生きている限り、幸せになることをあきらめずに頑張るよと、誓っています。

ノドの詰まった感じ

富良野混声合唱団で、今夜も「勇気100%」をうたった。2週間前の練習でも歌ったかもしれない。「まだ、涙だけで終わるときじゃないだろう」の歌詞に励まされて、母の看病に通った。まだ、生きているんだから、一緒に側にいるだけでも、母にとって心強いなら、仕事を休んででも行こうと、週に2~4日の休みをとって通った。

2週間前の練習の翌日、主治医に「あと数日か数時間単位」と言われ、病院に泊まり込んだ。最期の数日、体力も精神力も使い果たしたが、母が亡くなって8日たった今は、看病できた時期が懐かしい。亡くなった瞬間や葬儀の間、その後の1週間、私はすることに追われ、十分に泣いていなかった。涙を流すときに、流さないままできた。喪主を務めた葬儀の翌日から出勤したのは、亡くなる前の5~6日、職場を離れていたからだが、心は母の死をひきずったまま、急にイライラしたり、疲れがふとしたミスに現れたり、している。「涙だけで終わる」ときが、もっとあっていいのだろう。父の死の時もそうだったが、死去に伴う各種手続きや香典返しなどに追われ、母の死を深く感じる時間を十分にとっていなかった。

「悲しみからの回復はゆっくりでいい」と、心ある友人たちが言ってくれる。母はお骨になってしまったが、遺言のような言葉は録音してあるし、起き上がれる最期まで頑張って絵を書いていた写真は、きょう、写真立てに収めた。家計簿に残した息子への感謝のメッセージ、ヘルパーさん日誌にみられる母の言葉…と、思い返す材料はたくさんある。母の入院以来感じている、のどのつまった感じは、それが十分消化されていないでいることと関係あるかもしれない。最期まで自分らしく、生きようと頑張った両親を忘れない作業をこれからも続けていきたい。

戸隠でフォーカサーの集い

  • 2013年9月12日 22:37

 そばで有名な、長野県戸隠高原は平安時代から、山岳信仰の聖地であった。8月下旬、そこの宿坊に泊まり、別の宿坊で日本フォーカシング協会総会兼フォーカサーの集いが開かれた。

 私の出たトラウマからの癒やしの出店では、心理療法を尽くした後は、「祈るしかない」という臨床心理士の心境に共鳴した。そこからは、どんな宗教でもつながっていく。ものすごいつらい体験をしたあなたも、それを聴いた私も、「それでも、今、ここに生きている」と実感し、自然に営みに感謝できるようになることが、癒やしなのだろう。大自然の中に参道や散歩道が多い戸隠は絶好の癒やしの場だった。

そのほかにも、収穫は多かった。会場で新発売された「フォーカシングはみんなのもの」という本に出ているグループワークをこれから、札幌でも少しずつやっていきたいと意欲がわいてきた。米国人でアフガニスタンでフォーカシングをコミュニティの健康教育に取り入れたパット・オミディアンさんのお話からは、もっと肩の荷をおろして、フォーカシングを自分の領域、持ち場に合わせて、一部だけでも導入すれば十分なんだよというメッセージを得た。イスラエルの心理療法家がセラピーに使った「コルビー」という人形を紹介してくれた大正大の日笠さんの出店で、私は自分の子どもだったころの元気さを今の自分の中に再発見して、エネルギーをもらった。

 自分の将来ビジョンは何なんだろう、定年後、本当はどう過ごしたいんだろう、と、人に話を聴いてもらい、自分でも自らに問いかけるプロセスも深めた貴重な3日間だった。

最終楽章の解放感

  • 2013年9月21日 22:13

今夜は、佐藤良枝コンサート2013を札幌の渡辺淳一文学館で聴いた。タイトルのCadeauは「音の花束」の贈り物という意味だそう。全体を聴いて、すばらしい贈り物をもらった気がする。良い音楽は、心にも体にも良い。良いものは良い。悪いものは悪い。残りの人生、何年かはわからないが、より良く生きていこうという、励ましというか、力をもらった感じがした。

 特に、最後のセザール・フランクのソナタについて、佐藤良枝さんは自身のブログにこう書いている。

「このソナタは全4楽章あり、全て通すと20分ほどかかります。
それでも、かなりドラマチックな展開で、激流のように進行します。
なので、所要時間の割に、あっという間に過ぎていきそうな感じを受けます。

多分、この曲をご存知の方は4楽章が好きな人が多いと思います。
聴いていただくと納得されるかと思いますが、前3楽章までは長い苦難の人生・・・を思わせます。
そこを乗り越えての最終楽章の解放感(ぴったりくる言葉が見つかりませんが)。
人生、最後はこういうふうになりたい、と思わせてくれます。」

 聴いていて、本当にそんな気がした。「解放感」というか、新鮮なエネルギーに満たされた感じというか、まさにフォーカシングでいうところの、フェルトシフトが起きた時の実感がした。本当に、つらく、長い人生だったよな、よく生きてきたな、今、こうして生きていることだけで、すばらしいよな、というような、前向きの文化の素晴らしさを全身で味わうような。コンサートの帰り道を、中島公園の樹木や池のある散歩道を歩きながら、この名前のすぐにつけられない、よい感じを味わっていた。

「グロリアと3人のセラピスト」とともに生きて

  • 2013年9月29日 09:10

 カウンセラーの学習によく視聴される映画「グロリアと3人のセラピスト」に登場するグロリアの娘、パメラが母の生涯を書いた本である。日本フォーカシング協会事務局長の堀尾直美さんらが翻訳し、日本で出版された。

 驚いたのは、この映画に出たグロリアは本名で、その会話で語られた娘の名も実名で、本当のセラピーの場面を台本抜きで撮影したということである。このため、映画が心理を学ぶ人の教育用だけでなく、商業映画として各地の映画館やテレビで上映されたために、グロリアは傷つき、訴訟まで起こした。

 グロリアは勇気のある女性だ。たった1日で、当時(1964年)を代表する3人のセラピスト、クライエント中心療法のカール・ロジャーズとゲシュタルト療法のフリッツ・パールズ、論理療法のアルバート・エリスの面接を受けた。映画の最後にもう一度、会うとしたら、だれがいいかと聞かれて、グロリアはパールズと答えた。その理由がこの本を読むとわかる。しかも、グロリアは撮影の面接で、パールズから一番、傷つくことを言われ、撮影終了後、パールズのたばこの火を落とす灰皿をグロリアの手でさせられたエピソードも盛り込まれている。グロリアはパールズに嫌悪感を抱いた。しかし、当時、離婚したばかりで職業の資格もなく、アルバイトして子どもたちを育て、それまでのカトリックの道徳観に代わる、新しい価値観を欲していたグロリアにとっては、自信ありげにグロリアの話を聴こうとしないで、誘導するパールズが魅力的に感じたことが説明されている。

  実際の人生では、その後、ロジャーズ夫妻を理想の「両親」のように感じて、亡くなるまで手紙をやりとりした。その手紙も掲載されており、胸をうつ。あのわずか30分のロジャーズとの面接がきっかけて、新しい人生を歩みだし、息子の病死など苦労を経て、自らも病気で早く亡くなったグロリアが娘たちに伝えたこと、それは、人から聞いた話は信じるな、自分の経験を半分だけ信じろという、「経験」を重んじた生き方だった。経験というか、それは「実感」したことに重きを置いた生き方だろう。まず、自分本位になり、自分自身の必要を満たすことを、グロリアは娘たちに教えた。他人が私のためにできることは、私が自分自身の道を歩み続けるための強さが与えられ、正しい方向に導かれることを願うだけだと説いた。まるで、他人の方が私のことをよく知っているからのようにして、私に指示して、動かそうとすることを嫌っていた。クライエント中心療法の本質をグロリアが語った部分のように受け取れる。

 私の両親もよく、「自分を大切にしろ」「御身第一」とよく私に教えてくれた。私が、子どもの問題で心を奪われている時でも、介入しすぎないように戒めていた。父はよく母に「英生のことは、あれでいいんだ。何も言うことないんだ」と、母に言っていたという。

 パメラは、母グロリアから多くを学び、今、母の遺言を基に、映画とグロリアの生涯の真実を伝えるこの本を書いた。映画の中で、論理療法やゲシュタルト療法がどう描かれたかを思い出しながら、読むと、なお興味がわいてくる。カウンセリングに興味を持ち、この映画を見た多くの人に読んでほしい。コスモス・ライブラリー。1800円プラス税金。

自殺予防のゲートキーパー研修

  • 2013年10月21日 19:39

「地域、職場で自殺予防ゲートキーパ^として活動するために-認知行動療法から学ぶ」と題した研修会が20日、札幌市内で開かれた。講師は道医療大心理科学部の坂野雄二教授。

 スタートラインは、認知行動療法ではなく、まず、聴くこと。フォーカシングの基本でもある傾聴にあると強調した。あわてず、相手が自由に話せるよう、質問の工夫をする。「調子悪いの?」とか「大丈夫?」とか、質問しがちだが、そうすると、イエスかノーの答えしか返らない閉じた質問になる。「調子はどんな感じなの?」「どう思っているの」「~どんなふうに」と、聴くと、「胸のあたりがザワザワしている」とか、答えてくれる。このような本人が気づくための問いかけは、日常生活での身近な人とのやりとりで身につけておくという説明に納得した。

 相手が話しはじめたら、相手のペースを大切にし、相手の邪魔をしない。説教しない。これも、頭でわかっているが、練習しないと身に付かない。

 そのうえで、自殺企図者への対応として、あいまいさや、いい加減さへの耐性を強くして、二者択一的な考え方を修正することなどを挙げた。そして、「問題解決療法」を具体的に説明した。フォーカシングで目標とするような、人間的成長は大きな目標としてなくさないが、ここでは、自殺回避を優先する。「もう3割しか残っていない」という考え方を「まだ3割残っている」と変えるとか、気分と情緒のコントロール方法を趣味でもいいから、慣れたものでよいから、身につけることなどを提言した。解決策の模索では、その場で決めないで、いろんな方策を考え、いつ行うとよいか、タイミングを考えることも勧めた。

 全体として、気分障害(うつ)が自殺未遂経験のある人には、こうしたアプローチの方が入りやすいというのは、なんとなく、わかるような気がした。

フォーカシングと霊性

  • 2013年10月27日 22:37

エルフィー・ヒンターコプフの「いのちとこころのカウンセリング」を再読した。

 この中で、エルフィーは、神とか、人間を超えた大きな存在などを信じる人とのフォーカシングに役立つ質問などをはさんで、フェルトシフトが起きることを促進する方法を詳述している。私は両親の死以来、やはり、自分の力ではどうしようもない生命の法則について、自分を超えた大きな存在を信じたいという気持ちになってきた。それが、神であれ、イエス・キリストであれ、ブッダであれ、自然の創造主であれ、自分が死ぬときに、体の苦しみの中でも、いかに心安らかに人生を終えられるかという、気持ちの落ち着きにつながるものであれば、今は信じる道を選びたい。そして、両親の肉体は死んでも、私の心の中では、生き続けており、それを天上での「復活」と呼ぶなら、それで構わないし、私にとって神様の横に復活した両親がいると言ってもいいように思う。

 それにしても、現実には、富良野時代にそうであったように、この世で、いかに自分の時間やエネルギーを効率的に使い、何事かを成し遂げようとする生産第一主義の習性からは、なかなか距離をとれない自分もいる。心静かに、両親や子どもたち、周りにいる人たちとのつながりを感じ、ゆっくりと、無駄もよしとして、一つひとつのことに集中して、丁寧に生きる、生き方から離れているような毎日でもある。

 実際には。弱い自分、愚かな自分を自覚し、悩み苦しみ、どうして自分だけがこんな人生を送るのかと、卑屈にさえなる。でも、その中にこそ、神が宿っていると、聖書は教えているのかもしれない。エルフィーの本に出てくる質問を試してみながら、フェルトセンスが何についてのものなのか、その核心は何なのかを知り、それが必要としているものは何かを自分に聴き、身体が楽になるにはどうしたらいいかを聴くことを通じて、もっとフェルトシフトを体験して、からだのレベルで自分も成長していきたい。今日は、先週日曜のトリプル行事参加プラス、子どもたちとの面談という、疲れきって、しまった体験を反省して、行動をセーブして、自分の内面に向かう時間もフォーカシング仲間の協力でとれた。

 時間を超えて、空間を超え、人間の生死まで越えたスピリチュアリティ-(霊性)面の成長をこれからも続けていきたい。今日は、行けなかったが、教会での時間が、そういう静かで、穏やかで、落ち着いた、こころに平安をもたらすひとときであり続けてほしい。それには、教会員と霊性についての質問も含んだフォーカシングのリスナーをしてみるのもいいかもしれないなあと思う。それにもまして、大切な人との関係で「心の余裕」いかに大切か。フォーカシングをしながら、かみしめた日でもあった。

天羽和子さんをしのんで

  • 2014年1月 5日 08:07

 札幌フォーカシングプロジェクトでも、子どものフォーカシングについて2007
年と2011年の2回、ワークショップの講師に来ていただいた天羽和子さんが、
12月7日に亡くなられました。

 天羽さんは、フォーカシングコーディネーターで、子どもとフォーカシングの

日本での第一人者として活躍されていました。

 札幌での1回目のWSでは、弟さんが道内に在住され、お立ちよりになる

のに甘えて、ボランティア同然で講師をお願いしました。2回目は正規に

お支払いしましたが、終了後、ボランティアで富良野に来ていただきました。

当時、私が富良野に住み、脚本家の倉本總さんが福島県の被災地の子どもたち

を富良野に「疎開」させるプロジェクトを始める関係で、受け入れの家族らへの

心理教育が目的の講演でした。天羽さんは、災害によるトラウマが長く心に

残ることを御自身の体験も交えて、優しく、話され、40~50人の参加者たち

の心をうちました。 最後にフォーカシングについて話され、「もっと知りたい時

は上村さんに聞いてください」と、紹介してくれたことを契機に私はその後、

富良野地方の養護教諭研修会や中学校研修会に講師として呼ばれ、フォーカ

シングの普及にもつながりました。

 でも、今から思うと、2日間のワークショップでお疲れのうえ、富良野に夕方

向かって、夜の講演ですから、さぞかし、ご負担をおかけしたのではと想像

します。

 大阪のホテルせいりゅうで毎夏、開かれるフォーカシングセミナーに私が

参加した際も、天羽さんは東京からいらして、セッションの講師をされていました。

たくさんの教材をかかえてきて、笑顔でセミナー参加を呼びかけていた姿が

思い出されます。全国、世界を飛び回って、フォーカシングを通じて子どもたちの

幸せを実現しようとされていたのですね。お疲れ様でした。

 フォーカシングを愛し、たくさんの人々に癒やしと平安を与えてくれた天羽さん

のご冥福を心から祈ります。そのお気持ちは私たちが引き継ぎます。

ジェンドリン87歳、「移行」に思う

  • 2014年1月10日 22:53

 ユージン・ジェンドリンが昨年12月、87歳の誕生日を迎えたことにお祝いのひとことを書きます。

 8年ほど前、ニューヨーク郊外でお会いした時のジェンドリンは、眼光、知性とも鋭く、フォーカシングで社会を変えることに深い関心を抱き、まだまだエネルギッシュでした。自分で車を運転して、ウイークロングの会場に到着し、「フォーカシングとは何?」という私の新聞記事向けの質問にも本質を突いた答えをしてくれました。

 今回、フォーカシング研究所長を引退し、哲学と愛することに専念したいというメッセージを読んで、感慨深いです。研究所の顧問的な立場に退くメアリーにも、カリフォルニアでのフォーカシング国際会議で取材ににこやかに答えていただき、コスタリカでの国際会議やウイークロングでも歓迎していただきした。一緒に研究所を退くカイ・ネルソンも来日した際、日本フォーカシング協会ニュースレター向けのインタビューをさせてもらい、笑顔が印象的でした。世界のフォーカシング界をひっぱってきた3人に感謝しています。

 「移行こそフォーカシング」と書かれていました。確かに、フェルトセンスは刻々変化します。その内面的な体験の流れについていくのがフォーカシングというのは、まさに本質的な理解だと思います。ついつい、私は変化をおそれて、前のなじみのある感じに戻ろうとしますが、プロセスを信じて、半歩下がって寄り添うようについていくことが、リスナーの傾聴する姿勢だと、先日の大澤美枝子さんをスーパーバイザーとするセッションで学んだことでした。こうした変化を世界のフォーカサーだれにでも、伝えようとする研究所の臨時理事会のみなさんにも敬服します。その一人、ナイナ・ジョイ・ローレンスは、パット・オミディアンとともに、戦火のやまないアフガニスタンでフォーカシングを広めた勇気ある女性です。

 新年にフォーカシング研究所からいただいたメッセージに、フォーカシング界らしい優しさと柔軟さ、民主的なプロセスを感じました。

「僕のフォーカシング=カウンセリング」

  • 2014年2月16日 08:44

 池見陽さんの「僕のフォーカシング=カウンセリング ひとときの生を言い表す」(創元社、2000円プラス税)を再読した。2010年に出版された当初に買ったが、札幌での6月のワークショップを前にもう一度、読む気になった。あらためて、奥深さに感動を覚えた。

 どうも、自分のフォーカシング理解は、「内側」にこだわって、目を閉じてやるもので、外側の状況とかには触れないのがフォーカシングという癖があると感じた。アン・ワイザーの来道時に新聞にコラムを書いた時に、印刷寸前になって、同僚からクレームがついたことを思い出す。「内側とか、内面、体の中で感じるとはわからない」などと言われ、急いで書き直した。アンの教示で「内側に注意を向けましょう」というが、その「内側」とは、人間ドックの胃カメラで見る食道や胃、十二指腸、小腸そのものではないだろう。ジェンドリンが体の中心部分に焦点を当てましょうと言っているのは、胸とかおなかとか、そのへんで気持ちを感じることが多いからである。池見さんは、「感じる」という言葉をうまく使うことで、「内側」を使わないでも表現できるという。

 フォーカシングは生きるありよう、人間関係をめぐる感じに焦点を当てることであり、大事なことはそこで感じたフェルトセンスを「言い表すこと」だというのも納得できる。言葉やイメージなどに「象徴化する」というと、かたい感じがする。言葉になっていないけど、うすうすとは感じているものを「言い表す」こと、それがぴったりかどうか、確かめること、それによって前進、いわば肯定的な人格変化が起きるというわけである。

 こうしたことを、鹿児島でのカウンセリング研究会の人たちとの個人セッションの記録を通じて、わかりやすく、しかも小説仕立てで面白く伝えたのが本書だ。特に個人セッションでリスナーは、フォーカサーの体験の流れについていき、体験の流れに乗ることで、体験的一歩を進めるのに役に立っていることが、自分には欠けている点として勉強になった。また、伝え返しや、フェルトセンスに注意を向けてもらう教示、「それは何を必要としていますか」というような質問は私も良く使うが、リスナーのフェルトセンスを示すことはあまりしていない。タイミングをみて、それをすることで、行き詰まりから脱出しているあたりに、優れた臨床家ぶりを感じた。

 精神分析との違いや類似点、副題にもある「ひとときの生」の意味、仏教の諸行無常と、フォーカシングで言う、絶えず変化する人間観など、さまざまの示唆に富む本を、多くの人に読んでもらいたい。カウンセリングを学び始めて、「傾聴」とは何か、もっと知りたいという人にとっても絶好の案内書になる。難解だった「ジェンドリン哲学入門」も再読しようという意欲がわいてきた。哲学者、ジェンドリンは適者生存の進化論をどうとらえ、近代の西欧の科学文明の基になったキリスト教的世界観にどう対峙していたのかなど、興味は尽きない。

クリアリング・ア・スペースのデモ

  • 2014年7月12日 21:42

 とても良いセッションでした。池見さん(文中では「僕」、とデモに出ていただいた参加者のご了解を得て、すばらしい教材として、アップします。(札幌市社会福祉総合センター、 6/15 2014)

僕-1:

からだの内側に注意を向けましょう

内側っていうのは、お腹とか、体の真ん中あたりです

そこに注意を向けながら、元気かなとか、どんな感じがあるかな

あるいは、最近気になっていることがあるかなとか

何か気がかりなどが浮かんできたら

一言いってください

中身を説明するのではなくて

「人間関係のこと」とか「仕事のこと」とか

そんなふうに言ってもらったらいいです。

彼女-1:

ひとことだと、出たいけど出られない

僕-2:

出たいけど(彼女:出られない)出られないみたいな

じゃあ、出たいけど、出られないみたいな

なんかそんな感じがあるわけね

じゃあ、まず、それに気がついておきましょう

なんか、出たいけど、出られない

出られないみたいな感じがあるんだなあ〜

で、この出たいけど、出られないみたいな

この感じをちょっとどこかに置いておくとしたら

どこがいいでしょうか

彼女-2:

ビルの上

(彼女はセッション中、ほとんど目を瞑っていたが

このときは目を開けて

窓の外に見える隣のビルを一瞬のうちに眺めながら

そう言った)

僕-3:

あのビルの上、いいですか(彼女:はい)

じゃあ、あのビルの屋上においておきましょうか

いいですか

おけましたか

はい、じゃあそれはあそこの屋上において

このほかはどうかなって….

彼女-3:

会社のこと

僕-4:

会社のことが、はいはい

じゃあ、会社のことっていろんな側面があったりすると思うんですけど

全体の感じはどうでしょう

このことを思うと、どんな感じがするでしょう

彼女-4:石ですか(僕:必死?{聞き取れなかった})

石、でっかい石みたいな

僕-5:

石、ああ、でっかい石ですね。

今、でっかい石って言ったときに

ちょっと、ニコっとされましたよね

彼女-5:

でっかい石なんですけど、悪いイメージはあまりない。

僕-6:

悪い石ではない、でっかいけれど

彼女-6:

でっかい

僕-7:

でっかいんですね

じゃあ、このでっかい石、どこに置いたらいいでしょうか

彼女-7:

でっかいので、なかなか移動ができないんですけど

ちょっと今は動かせない。

僕-8:

そのでっかい石はどこにあったらいいんでしょう

彼女-8:う~ん、それは自分の中?

僕-9:いや、こういうでっかい石だったら、火山の噴火口の近くとか

彼女-9:

あ~、もし…そうですね(沈黙)

どっか、きれいな景色のあるところに(僕:はいはいはい)

オーストラリアの石みたいに

僕-10:

オーストラリアの石(はい)

彼女-10:

エアーズロックみたいな

僕-11:エアーズロックみたい、あんなにでかい({笑いながら}ですね)

じゃあ、エアーズロックと並べておきましょうか

彼女-11:

はい

僕-12:

いいですか

じゃあ、今ふたつ起きましたね

ビルの上とエアーズロック

このほかはどうでしょう

彼女-12:

あとは家族

僕-13:

家族のこと

彼女-13:

はい

僕-14:

で、この家族のことはどんな感じがしますか

彼女-14:

家族は、何でしょう

すごい自分の中の常に気になるんですけど、脇にある

僕-15:

気になるけれども、脇にある

彼女-15:

常にあって

視界の脇にあるんですけど、中心にはない感じ

僕-16:

ああ、視界の脇にあるんですね

うんうん、で、この視界のわきにあるのはどんな感じがします?

彼女-16:

いやな感じは全然ないんですが(僕:はい)

う~ん、なんでしょう、忘れちゃいけない感じ

常に覚えておかなきゃいけない感じ、携帯みたいな感じ

僕-17:

なんか、自分の中で、ちょっと僕に聞こえたんですけど

え~と、自分の中で常に家族のことを忘れちゃいけない

常に家族のことをどっか、脇のほうで思っていなきゃいけない

つねに携帯していなきゃいけない、なんかそんな発想がある

彼女-17:

そうですね

僕-18:

じゃあ、この発想をどこかに置いて置きましょうか(彼女:そうですね)

まず、それに気がついておきましょうね

常に家族を思っていなきゃいけないと自分で思っているんだなあと(彼女:はい)

この発想をどこかに置いておきましょう

彼女-18:

はい

僕-19:

で、どこに行きたがっていますか?

彼女-19:

僕-20:

空、すごい

彼女-20:

僕-21:

どんな空

彼女-21:

青くて高い

僕-22:

青い、高い空、は~い

彼女-22:

(沈黙44秒) (すすり泣く)(さらに沈黙22秒)

僕-23:

今、何が起きました?自分の中で

彼女-23:

わかんないです。空に投げた瞬間に、涙がでてきて

初めての感覚だったので、わかんないです

何がおきたのか(うん、うん)

僕-24:

どんな感じを伴っています?涙は

彼女-24:

たぶん話したことが

だれにも言わなかったから、こういう場では

僕-25:

ほっとしたみたい感じ?それとも

彼女-25:

そうですね

ずっと、こういう講習会とかでも

だれにも話すことがないので

初めてだったので(僕:うん、うん、うん)(沈黙10秒)

僕-26:

じゃあなんか、初めて話せたなあ….

彼女-26:そうですね、うん、うん

(沈黙15秒)

僕-27:

うん、初めて話せて、どんな感じですか

彼女-27:

すごい、なんでしょ、警戒していたものがとれた感じ

僕-28:

ああ、警戒がとれた感じ、はい、はい

じゃあ、なんかずっと警戒してたんだなって

自分の中で

それで今、その警戒がとれたような感じがする

彼女-28:

あったかくなって、本当ですね

僕-29:あったかい感じがしている

じゃあ、このあったかい感じとちょっと一緒にいてみましょう

彼女-29:

はい(沈黙40秒)

僕-30:

なにか浮かんできていますか

彼女-30:

祖母が{笑い声で}(僕:ああ)浮かんできました(僕:うんうん)

僕-31:

なにか言っていますか、おばあちゃんは

彼女-31:

何も言わないです。ずっと見て

僕-32:

うんうん、じゃあ今、あったかい感じがあって、それから祖母の顔が浮かんでいて

(沈黙34秒)で、今どんな感じ?

彼女-32:

気持ちが…肩がすっきりしている

僕-33:

すっきりしている感じ?

彼女-33:肩コリが治った感じ(笑い)

僕-34:

肩コリが直った感じ、オーケー

じゃあ、そのあったかくて、肩こりのとれてきた

その感じを味わって

もう十分だなあと思ったところで終わりましょうか

彼女-34:

はい(沈黙20秒)はい、だいぶ調子がよくなりました(笑い声)

僕-35:

いいですか

彼女-35:

よくなっています

僕-36:はい、はい、オーケー、じゃあ終わります

【感想】

彼女:

いや〜私は、なんでしょう

昨日の、軽い感じでいい、というところで

正直、フェイスブックをアップしようか迷っているとか

そういうレベルを考えていたんですけど

まったく、自分では触れたくない部分に勝手に焦点が当たってしまって

ずっと{どこで}セッションをやっても

私は{これまでにやってきた}ロールプレイングとかでも

ずっと避けてきた

触れたくないところだったんですけど

もう、あまりにも問いかけが抽象的なので

当たってしまいました

はい、なので、自分でもわけのわからず

涙が出てきて大変でした(笑い)

僕:これ、本当にすごく面白いのはね

初めてこの話題を話したっていったけど

話してないんだよね、実はね

だけど、話したって、いうふうな感じになるんですよ

{僕との関係の中でこのことにかかわることができた

そういう意味で「話した」感じがするのですね}

言葉にしなくていいというところが

実はそれにもっと{かかわる}ことを促進しているんですよね

この話題を話しなさって言っていったら、話せないでしょう、たぶんね

だから話さなくていいという安心感の中で

ふれていくことが促進される{のですね}

{それから}さっきの質問で

ストラクチャーバウンド{構造拘束}と再構成化という話がでたんですが

まさにこれがそうですね

{彼女はこれまで}どんな研修会でも

この話題には触れないようにしようと{していた}

そういうストラクチャーバウンド{な体験の様式}があった

{だけど}ここの場で僕が聴いているというこの関係

{それ}がその構造を再構成化したんです

だからこの話題がすっと浮かんで{きたんですね}

それはだれかが聴いているから

僕が聴いているから

そういった関係が{成立しているから}出てくるんです

明在的(explicit)にはなっていないかもしれないけど

昨日言ったimplicit (暗在的)なところで

ある種の関係の信頼感みたいなものが{成立}したのだと思うんです

{つまり}もしも、僕が全然信用できない奴だったら

たぶんフェイスブックのネタか何かが出てきて

それで終わりかもしれない

自分で気づいていないかもしれないけど

暗在的なところで、何か信頼できる{関係があるからこそ}

ほかのワークショップでも避けていた話題みたいものがすっと出てくる

{そういう意味では、人といるときは

自分自身でフォーカシングをしようとするときとは

違った内容が出て来るし、展開も違うのです}

うん、でも、とっても表情がね、変わったっていうか

楽になった感じがしていましたね

はい、はい、はい、はい、いいですか

{ところで}人がつくるイメージの素晴らしさていうか

素晴らしいなと思ってappreciateする{味わう}

{いつもそういうふうに感じています}

エアーズロックもすごいし

空もすごいじゃないですか

自分では想像もできないようなすごいイメージが出てくる

すごいなあって

なんかそんな、尊重の感じで聴いていると

いいなあと思うんですね

はい、はい、じゃあ、どうもありがとうございました(拍手)

【後日「彼女」からのメール】

…先生に面接して頂いて以来

ずっと、肩にあった重荷がとれた感じです

あれ以来、私は不思議に守られている感覚を強くもち

少しずつ、自分を解放している感じです

実名も公表して頂いても構いません。

是非、研究資料に使って下さい。

自分自身と向き合う、大変大きな人生の転機だと思います。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。

フォーカシングとクライエント中心療法
(池見さんのWSから)

  • 2014年9月21日 20:19

 フォーカシングとか体験過程尺度(EXP)を最初に勉強したほうが、ロジャーズがわかりやすいって言われるんです。最初から「共感」とか「受容」とか言われるほうが難しくて、フォーカシングのほうでリスニングを勉強するとロジャーズがよくわかる、そんなこともよく言われます。

何年か前に、ロジャーズの仲間の一人で、アート・ボーハートさんの講演をイタリアで聞いていたんですけど、地図をパワーポイントで出してきて、パーソンセンタード王国の地図みたいのがあって、隣の国がゲシュタルトになっていて、だれがどのへんに近いとかマッピングをしていた。その講演の最後に言われたんですけど、「お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、フォーカシングの砦というのがない。フォーカシングの砦がなぜないのかというのは、真ん中にある古典的パーソンセンタード療法、フォーカシングはそれ自身なんだって。おっしゃった、それは実はおれが言ったんじゃなくて。カール・ロジャーズが言ったんだって。カール・ロジャーズとビールを飲んでいて、ちょうどそのときにロジャーズの専門書を編集していて、その時にジェンドリンは「フォーカシング」という本を出したばっかりで、「ジェンドリンはどうしましょう。このロジャーズの本に含みますか」って。「あの人は今、フォーカシングという別の名前、ブランドを作って出しているから、どんなもんか」と聞いたら。「もちろん、ジェンドリンは入れろ」と言われて、「フォーカシングは完全に内輪の話だから」、そんなことをロジャーズは言ったんです。だから、ロジャーズにとっては、フォーカシングは完全にクライエント中心療法の中の話だった、ということを言っていて。しかも、かなり古典的なパーソンセンタードだって、「だから文句のある人はカール・ロジャーズに言ってください」、と言って、ステージを降りて行かれました。

 あの、確かにそうだなと思いますね。リスニングはとても大事ですし、僕が初めてフォーカシングに出会ったとき、ジェンドリンのリスニングを見てびっくりしましたね。とても、やさしくて、でもとても繊細で、すごく大きな変化が起こっているのがよくわかるんですね。それまで僕はなんかちょっと、派手なことをやろうと思って、ゲシュタルトとかな、サイコドラマとか、やってみたんだけど、どうも、性に合わないというか、ゲシュタルト、今はコラボレーションワークショップをもう4年ぐらいやっているけど、初めてゲシュタルトのワークショップに行ったとき、エンプティーチェアーに座ったときから、違っているんですよ。自分が。恥ずかしくて、緊張して、一夜に別人になっていまって。だから、そこからやっていることが全部演技になってしまうみたいな、不自然さがすごくあったんですね。そういう不自然なものが嫌いで、そうすると、リスニングというのはとても自然でぴったり来るな、そんなありました。まあ、(ワークショップ初日の)昨日はそんなリスニング=フォーカシングというところで、やってきました。

クリアリング・ア・スペースの源流(池見WS)

  • 2014年9月21日 20:23

今日はクリアリング・ア・スペースから考えます。もちろん、フォーカシングやっている方はクリアリング・ア・スペース知っていると思いますけど、実に不思議なもので、クリアリング・ア・スペースがどこから来たのかが不明なんです。よくわからない。リスニングはまあロジャーズから来たとか言えますけど、クリアリング・ア・スペースの発想をジェンドリンはどこからひっぱってきたのかわからないんですよ。フッサールかなという気もするんですけど、エポケかなと思うけど、はっきりは言えない。で、なおかつこう、気がかりを一つずつ丁寧においていくとかするんですけど、79年にジェンドリンが初めて来日したときに、どこかの禅寺に行ったんですって。僕当時シカゴにいて、ジェンドリンが帰って来て日本の話をいろいろ聞かされたんですけど、禅寺に行って座禅をしようとしていたら、禅僧が来て、ジェンドリンが瞑想している姿を見て、「あなたは心配ごとたくさん持っているから、一つずつ、ここに置いて置きなさい」って言われたって。で、まさに自分のクリアリング・ア・スペースと同じだと思って感激したという話をしていたんですけど、なんか禅にも似ているのかなと思うんです。

だけど、ジェンドリンと禅って、結び付かないんですけどね。ブランド的には。禅に似ているとか、クエーカーに似ているとか、スーヒーに似ているとか、いろんなのがウェブページに出ていますけど、いっさいそういうところではコメントしないんですね。いっぺんその話をしたことがあるんだけど、しないほうが僕もいいと思うし、何かに似ているというと、フォーカシングじゃなくて、その何かの方をみてしまう。禅に似ているというと、禅に興味をもってしまって、そしてフォーカシングは禅の一つだと思ったり、クエーカーに似ていると言ったら、じゃあクエーカー教って何だろうみたいに。そっちへ興味が行ってしまうので、そこはジェンドリン自身何も語らないほうがいいと思うんですね。で、このクリアリング・ア・スペース、気がかりをどこかに丁寧に置いておくということ、これもやり方がいろいろあります。

 たとえば、気がかりを丁寧においておくでもいいですし、気がかりのフェルトセンスを一つずつ丁寧に置いておくというのもあるし、ジェンドリンの例でいうと、事例の中でやっているんですけど、クリアリング・ア・スペースよりも、カウンセリングの応答として使っている。たとえば、あの大変な気持ちをクライエントが感じたときに「そこから一歩下がりましょう」とか。そんな言い方をしていますね。自分が崩れていくような不安定な感じがあるクライエントに、じゃあ、たとえばビルが崩れていくなら、ずっと後ろに下がるでしょうって。1ブロックぐらい下がるでしょうって。下がってそこにいて安全な場所を見つけて、そこから見ていましょう、そういうようなことを言っていますね。面白いんですけど、その2回後の面接かな、大変な気持ちが出てきたときに、ジェンドリンはリフレクションしていて、クライエントはそのまま沈黙、長い沈黙になって、どうも動かないみたい、どうもその動かないみたい、その大変なところから。長い沈黙のあと、クライエントがいきなり、「お茶にしませんか」っていうんです。ああこれ素晴らしいなと僕は思って、お茶にしようというのは、クリアリング・ア・スペースしたんですね。この大変な気持ちは置いておいて、まず、お茶を飲みましょうって。こういう使い方もいいなあと。人間の心の自然な営みかな。ちょっと一服しましょうとか、ちょっとお茶にしましょうとか。

 僕たちはそういうことを自然にやっているのかもしれませんね。今回どうなんだろうな、ぼくはよくこういうふうに出張していくと、どうも、心配ごとを全部、置いてきているとか、駅に置いて来たりしているんですね。今回、神戸空港から来たから、神戸空港に初めてなんで、国際線乗り継ぎはやったことあるけど、神戸空港から初めてだから、帰ったらどうかわからないけど、新大阪駅はよく置いて行く感じがするんですね。新大阪駅で新幹線に乗って、東京かどこか行ったら、ルンルンになっていて、悩みごとはない、そんな感じになる、帰りに新幹線で新大阪駅に降りたった瞬間に何か「どか~ん」て、乗ってみたいな感じがすることがあるんですね。なんか、心が自然にそこに置いて行っているって。いう感じがありますね。だから、クリアリング・ア・スペースというのも人の自然な心の営みなのかなあという気がしますね。

体験過程尺度(池見さんWSから)

  • 2014年9月23日 22:37

■体験過程尺度(EXPスケール)

EXPスケール(体験過程尺度)は、僕はリスニングとか、フォーカシング教える上でも絶対必要なスケールだと思うんですよ。僕は、教育上、これは必要だと思うんです。ジェンドリンの本とか読んでもらうと、成功するクライエントと成功しないクライエントはある評定をしたらわかるって。それはこの尺度のことなんです。だから、あの発言を裏付けているのはこの研究。この研究は、ジェンドリンがやったというよりも、ロジャーズがやっていて、ジェンドリンがその中の体験過程のチームの中の一員だった。そのほかにマシューとか、キースラーとか、いろんな研究者がいます。ジェンドリンもかかわったし、フォーカシングの中ではとても大事にされている尺度なんですよね。

これは、フォーカシングや傾聴を理解するうえでとっても大事だと僕は思っているんですが、第三者が評定する尺度だから、本人がアンケートを書くとかじゃないんです。第三者がたとえば面接をみて評価する、そのための尺度。何を評価するかっていうと、体験過程に触れている度合いを評価していきます。7段階あります。

池見、田村2007は、これを5段階にしていますけど、今日は元の7段階で見ていきたい。この日本語訳は、「人間性心理学研究」に田村、吉良、村山で出ていますので。もっと詳しく見たい人はそっちをみてください。どんなことを評定するのか、体験過程に触れている度合いを7段階で。

若い数字は体験過程に触れていないってことですね。段階1は、自分が関係していない出来事を語る。支笏湖は9000年前に噴火しましたとか、これ、僕とどう関係あるのかわかない、そういう話をしている。この段階でしゃべられると、カウンセラーは困りますね。支笏湖は9000年前に噴火した、ああそうですか。いうぐらいしかなくて、これにリフレクションとかちょっと考えにくいですね。9000年前ですか、とか。ちょっとなんか漫才みたいになってしまう。こういうのは少ないんじゃないかって思うかもしれないけど、見たければ、NHKニュースを見てもらったら、だいたいこういうレベルでしゃべっている。

テレ朝的なのが段階2で、自己関与がある事実を語っている。昨日、千歳空港でレンタカーを借りて支笏湖までドライブしてきました。これは、僕が自分でレンタカーして自分で走ったのだから、自分で関係したできごとをしゃべっている。このほうがまだ一般的ですよね。でも、ここには気持ちの表現が入っていないんですよ。支笏湖までドライブ、支笏湖から札幌までドライブしました。これもね、カウンセラー、聞きにくいですよね。どう応答するか。ドライブしてきたんですねとか、聞いたら、なんかダサいですよね。ドライブしました。レンタカーだったんですね。ええ、トヨタレンタカーでした。トヨタでしたか?(笑い)どうしようもないですよね。このレベルではね。感情表現がないから、難しいですね。

もう少しレベルが高い段階3は、そこに感情表現が入る、だけど感情表現は、「昨日支笏湖にドライブしてきて、楽しかったです」みたいな出来事への反応です。ドライブしてきたという事実があって、それに対する反応として、楽しかったがある。世の中に言われている感情とか、喜怒哀楽とかいうのは、だいたいレベル3ぐらいですね。でもこれらは反応なんですよ。

もう少し深くなるというか、もう少し進むと段階4になって、出来事への反応ではなく、自己を表すために感情、気持ち、フェルトセンスを用いる。たとえば、ここは3とがらっと変わって、3までは出来事中心だと思ってください。で、4からは出来事から離れてきます。たとえば、最近は、なんか、朝起きてから、しんどいというか、ちょっとブルーな気持ち、なんか体が重たいような感じで、なんかもやもやしていて。この話って、出来事じゃないでしょ。最近の自分を表すためにこういう表現を使ってくる。だから、ここはさっきまでのドライブしてきて楽しかったという感情の使い方とは違う、これ段階4ですね。

段階5が、仮説提起とか、自問自答とか、最近こんなブルーな感じあるんだけど、なんだろうなっとか、疲れているのかなとか。こんなことをしゃべっている。だから、語尾に「かな」がつくことがとても多くなってきます。面接をしていると、5が出てくると、ああいいなって感じがしますね。カウンセリングをしていて、慣れてくると、5が来ると、脳細胞がぴくっとしますね。ときどき面接していて、釣り糸をたらして待っているみたいに、5が来たら、ぴくっと。母親面接していて、うちの子供起きてこなくて、どうのこうので、1時ごろなってもまだ寝ていて、うんぬんかんぬん、出来事の話がずっと続いて、EXPが2レベルでしょ。出来事の話が中心で。で、自分の感情は話さないで、ただ、息子が起きてこないとか、いつまでもゲームしているとか。ああどうですか、そうですかと聞くしかない。そういうときにふっと、私が心配しすぎなのかなっとか。来た瞬間にぴくっとくるんですね。ああ、ここだと。5が来たところですよね。

で、6ですね。なんかに気づく。これは、笑いだす人、泣きだす人、いろいろいます。笑いながら泣くとか。それから声が大きくなる。え~と、日常生活でいうと、度忘れした人の名前を思い出した瞬間。ああそうだ、あの人は山田さんだ、みたいに声が大きくなって、そのあともう、はっきりしますね。これ段階6のまあ、気づきって書いています。この気づきの特徴、さっきも見えたんですけど、「こうだったんだ」というのが多いですね。あの、今、気がついてみると、自分を責めていたんだ。さっきまでは自分を責めていると思っていなかったんですけど、今気が付いたら、ずっとそうだったんだみたい。これ面白いよね。だから、未来になってから、過去が変わるみたいな。今、気づいてみると、僕はずっと寂しかったんだ。でも、10分前は僕は寂しいと思っていなかったんだ。これをすごく面白いよね。あることに気づいたら、過去が変わるって。この気づきのパターン、「だった」になるんですよね。これ、ジェンドリンの論文では、推進されたウオッズっていうだけど、carried forward was っていうんだね。I was なんとかね。

村上春樹の一節を読んでいたら、フェルトセンスを語っているし、それも同じような過去形になっているんですよ。きづきという人が亡くなったあと、主人公がしかし、どれだけ忘れてしまおうとも、僕の中には何かぼんやりとした空気の塊のようなものが残っている、そして時がたつに連れて、その塊ははっきりとした形を取り始めた。僕はその形を言葉に置き換えること、それはこういうことだった。それを僕は、それを言葉としてではなく、一つの空気の塊として身の内に感じる、このくだりをみると 明らかにフェルトセンスを言っていて、身の内に感じる、からだで感じる、空気の塊、はっきりとした形がある、それを言葉に置き換えることができる、つまり、言葉にすると、それはこういうことだったという過去形なんですね。言葉にしてみると、過去はこうだったんだ、過去が見直されていく。これは本当にフェルトセンスの特徴を表した部分だと思います。塊りっていう形で、村上春樹は結構、フェルトセンスを書きますね。多崎つくるのあっちでは、いくら考えても解決しないものは、未決という引き出しに入れてしまう、と書いていますよね。その表現が何回か出てきます。だから、クリアリング・ア・スペースもしているかなあとか。村上春樹はナチュラルフォーカサーかなあとか。いろいろ思いますね。彼も翻訳していたのでね。英語と日本語で、日本語にしたらこぼれおちるものが、あるとか、そういうのをよく知っている人かなあと思うんです。

6が、何かにはっと気がつく。7ですけど、きづいたことが応用されていく。気が付いたら、そういえば、あの時もこうだったとか、気づきが広がって行く。これが7ですが、めったに見ません。ありません。これをまあ、実際に評定するときに、施行記録とか、聞きながらやるんですけど、あの~、録音聞いたら7ってのはとってもわかりにくいんですよね。ずっと笑っているとかね。ああって言っているだけとか。だから、録音きいてこれが7かと評定しろって言われると難しいんですけど、あるとき、大学でやっていて、これは社会人で入ってきた大学生でフォーカシングやっていて、その人はいろんなものをしまってしまうんですけど、しまったものを自分の中で暴れまわっているみたい話をして、ちょっとフォーカシングをして、とても広がりを感じて、いいところに、そこで面接を終わった。「広がりを感じる」という時に彼女の座りかたも少し大きくなった感じがして、ちょっと広がったなあって。広がりを大事にして終わりましょうねって、終わったら、だんだん顔がしかめつらになって。どうしたんですかっていうと、めまいがしだしたって。どうして、めまいがするんでしょうって。ああ、早期解釈じゃないかとか、言いだして、分析勉強した人、いやいや違うよって。さっき、広がりがあって、今、めまいがしている、その間に自分で何かやったでしょうって。何をしたか聞いてみるとどう。「広がりをしまおうとしていました」って。どこかにしまおうと。「いや、それは無理でしょう」って。「広がっているものをしまうって、無理でしょう」って。急に笑い出して、「そうですね」って言いだして。「広がりのまま、生きたら」って僕いったんですね。「あなた、いつも、いろんなものをしまっているだけど、広がりを生きたらどうですか」って。言ったら突然、ばっと固まって、目が涙ぐんで、「広がりのままで生きていいんですか」みたいに言うから、「広がりのまま生きたらどうです」って言ったら、泣き笑い、笑いだして、人生のいろんな場面が浮かんでいたんですって。いろんなところで、もっと広がって生きていたら、どうだったなとか、あのときもしまってしまったなとか、それから、しまってしまったいろんなものがそこで噴き出してきたんです。笑いながら、5分ぐらい続いたかな。笑い泣きしながら、一瞬僕の顔みて、「先生、今7です」って。また、泣きだして。これ7です。録音きいたらわからないので、ただ、すすり泣いているだけで。「これ7です」。で、それ結構珍しいものですね。

応答のしやすさは、簡単にいって、低い1~3ぐらいのレベルで話をされていると、なかなかうまくいきません。やっぱり、5以上ほしいですね。最近の研究ですね。ロブ・パーカーが面白い論文書いていますね。英語でfocusing oriented therapy って本が出ています。ブレイド メディスンというイギリス人が編集した、僕が第一章を書いています。フォーカシングの全体の理論を書いているんですけど、その中にパーカーが書いている、認知行動療法と、エモーションフォーカストアプローチのデータを、EXPの観点で再分析した。どちらでも、6があるときに成功しているんですよ。6が出ているということは、シフトしているわけだから、すると、やっているのは、認知行動療法かもしれないけど、クライエントはそこでフォーカシングしていた、本当に効果があるのは、EFP やCGTでなくて、実はフォーカシングでないのって、論を彼はたてているんですけど、なかなか面白い。

  

評定のしかたを説明します。録音、録画を実際にきいてやります。これは、何百回も使ったので、この事例は話し手のように話すことができます。ざっとそれをきいてください。それをグループで1個ずつやります。リスナーを評価しません。クライエントを評価します。S3は長いので、高い値を代表値にしてください。これからむっつの評定値が出るはずですね。ふつうは平均は使わないで、モード(最頻値)、ピークをみていきます。聴き手を読んでもらおうかな。きゃぴきゃぴじゃなくて、だらっとした感じで。

(参加者の一人がテキストを読む、ほかの人は4~5人ずつのグループをつくる)

これ、医学部、卒業したばかりの人の研修です。だから、今度、眼科に行くというのは、眼科の研修に行くという意味ですよ。 

評定者間のあんまりばらつきのない評定は信頼できる。僕のと一致度がどれぐらいあるか。ですよね。最近パチンコ勝てない、ほとんど2で3の方もいらっしゃったけど、これ2ですね。2というのは、気持ちの表現が入っていない。むりすれば、「すごく浮かぶ」の「すごく」が感情表現だという理解ができるかもしれないけど、いちおう、書いてある通りに理解しましょう。書いてないことは評定に含まないというルールでいきますから。ここは感情表現がないので3以上であることはありえないですね。自分がパチンコしているわけなので、1ではない。そうしたら、2しかないですね。

すごくはがゆい感じがする。S2、これはほとんど3ですね。3ですね。これはやっぱり、パチンコをしていて、はがゆいわけですから。はがゆい感じがするのは、パチンコをしていることへの反応ですから3ですな。

さあ、次がちょっと難しくなります。…面白くないんですよね、までですけど。割れましたね。3から5まで。僕は5です。これ明らかな5だっていうのは、なんかこういらいらいしているのかな、いらいらでもない、やっぱり、ここが5。僕が感じているのはいらいらかなという仮説を出して、いらいらじゃないよな、と感じて、そこから8秒間自問自答している。非常に明らかな5と言えます。

じゃあ、その次ですね。S4、これも長いですけど、これも分かれています。これは専門家も割れるでしょうね。4か5かで割れると思います。4の立場でいうと、S3であったように、しっかりと、何を感じているかなと言葉で言ってない。はっきりした仮説がみられない。4だと。僕はちょっと甘いので、S4の最後の「かな」がついているから、5にしてやろうか。あまりいいことしていない、というのと、いらいらかな、というのが質的には同じでないか。ということでここは5と。

次ですね。欲求不満、5、6で割れましたね。ここは5ですね。やっぱり、なぜ6でないかというと、6なら笑いだすとか、もっとはっきりした反応があるはず。「わかった」みたいのがあるはずだけど、ここはまだはっきりしないんです。

さあ、問題はS6ですね。これをどうみるか。3から6まで分かれているけど、3ですね。この最後の「寂しいね」「寂しい生活だね」を省いてい見たら、全部2ですね。で、この2というこういう生活のあり方に対する反応として、寂しいねが出ていますね。そうすると、僕の評定を言っていくと、235553ですね。最も高いところが5、再頻値=最も多いのが5、だからピーク5、モード5という評定ですね。

一番多いのがモード。で、モード5、ピーク5っていうのがどうかっていうと、自分のこと、ずっと見つめながら話しできる人なんで、あのカウンセリングに来るととても楽ですね。僕、紹介状にEXP書いてくれないかなと、よく思いますね。モード5、ピーク5とか書いてあると、いらっしゃい、とか言うと思うけど、(笑い)モード2、ピーク2とか書いてあったら、わ~っと、ね。ずっとなんかの愚痴言っているじゃないかなとか、なりますね。

さあ、ここのリスニングをちょっと見ていきましょう。これは、あのこの時記録を作るのにビデオ作ったんですけど、たまたまリスナーいなくて、奇数だったからで、アルバイトの職員か何かが入ってリスナーをしたんです。その人はあまりよく知っていません。ただ、学部の時、心理だったというので、よく見ると、応答はすべてリフレクションなんですね。たぶん、一番困ったのは最初ですね。EXPが2だった。パチンコ勝てないというのがすごく浮かぶ、どうしたらいいかなってことですけど、リフレクションしかしらないから、リフレクションした。パチンコ勝てない、と返したら、レベル上がったんですよね。2から3に上がったから、ほっとしたと思います。これでいいんだと。この2をどう返すかが曲者なんですよね。たまたまここ良かったけど。「パチンコ勝てないのがすごく浮かぶ」、「負けてんの」というと、「一昨日、5千円負けて」、とか、「どこのパチンコ屋?」と、そしたら、またそういう話しになって、ずっとレベルが低いままですよね。うまいこと、上がったところを返しているんですよね。そうすると、なんとなんと、5ですよね。5が出てきて、そこから、5モードで行くんですよね。S3、S4、S5と5モードで行きます。これはまあ、巡航高度のようなものだと思うんですよ。カウンセリングをしていて、良質なカウンセリングになると、だいたいクライエント5レベルで飛行するって、ときどき上下しますけど、基本的。でS5で何が起こったのか、今まではリフレクションだけで、いたのが、これ5の中に「欲求不満?」ある、ここで初めて展開しなかったんですよね。欲求不満のままで、それでここで何聞くか迷って、L6、「どういうふうにですか」と質問の形式に変えたんですよね。これはまあいいと思うんです。なぜと聞くよりずっといいですね。Howと聞くほうが、「どのように欲求不満ですか」と、しかし、生活の描写始めちゃったんですよ。だから、ここでExpがスト~ンと落ちるんですよ。2レベルに落ちて、3、でも、この人モード5の人だから次の応答で「寂しいんですね」と返ってくると、また5にパッと上がる。だから一時的に下がっただけ、基本的には5レベルでつながっています。

それで、こういうのを見ていて、あのEXPをうまくつかんでいると、話しを聞く時にEXPが聞こえてきます。(笑い)でね、中身は覚えていないかもしれない、でも「ずっと2レベルの話しでした」とか。それから、何レベルの話しが来ているな、ここはああそうとか、聞いておこうかな、と、そこにポンと5とか入ってくると、あ、ここだなってのが見えてきますよね。だから、話しのどこを聞くかっていうのがすごくはっきりしてきます。今朝の質問にあったかな、EXPを聞いているほうが、自分の考えに邪魔されないで済むかもしれない。たとえば、僕阪神タイガース好きですけど、阪神タイガースの話題だったら、興味があって、僕もそうだったり、でも、この人は阪神タイガースをレベル2で話しているって、2の話しなんだって聞いておくと、レベル3か4が出てくるまで待っている。別に3でなくても、これが読売ジャイアンツでも構わない。2は2に。そんなふうに見ていると、コンテンツでなくて、レベルを聞くようになる。

岡山大学にいるころに、研究で僕の逐語とか、アンワイザーとかジェンドリンとか、いろんなひとの逐語を評定してみて、セラピストにどんな特徴があるのかという、研究があって、そういうプロがやっている面接って、クライエントのEXPを下回ることがほとんどないんですよ。同じレベルが一個上、一貫してそういう応答をしていますね。ずっと上には行かない。1個上とか、ほぼ同じとか。歯がゆい感じがする、って来たら、はがゆいが3レベルだから、歯がゆいっていきますね。3に対して3。これを学部生の実習と比べると、学部生の実習は、応答がクライエントのEXPを下回っているのがあるわけね。だから、パチンコ勝てなくて、はたゆい思いがするって、レベル2に対して、「どこのパチンコ屋?」って聞いているとか(笑い)。こうすると、下がりますよね。でも、プロはこういうことしないんですよね。下回らない。あんまり、EXPを意識していない人でも、あんまり下回ることはない。だぶん、カウンセリングのみなさんの応答を考えると、たいがい、同じレベルか、ちょっと上レベルで。下がってはいないんだろうって思うんでうよね。

質問:いまのプロの方のは、これで評定したのですか。

池見:セラピスト用EXPスケールというのがあります。これは日本語訳はないんだけど、人間性心理学研究に久保田、池見って二人で書いた論文が出ている91年の日本語の論文の中で、その尺度を利用しています。だから、簡単な説明が出ています。スケール自体は英語で86年に出ていますね。アメリカで。

質問:今教えていただいたEXPスケールだけを使った研究もありますか。

池見:ありますよ。

じゃあ、ここでどんな言葉とか、概念が動いているかと、見ていこうと思うんですけど、まず、最初に出てくるのはS2のはがゆい感じがする。それからもし鉛筆かなんかで「はがゆい」をマークしてください。はがゆい感じってのに、記号をつけてみましょう。これを記号Aとします。S3は、Aですか、みたい聞き方ですね。そしたら、S3で何が起こったのか、Aというか、Aね、……。だから、AでなくてBですね。イライラしているのがB。イライラじゃない、イライラでもない、だからnot Bですね。で、やっぱり、面白くないという新しい概念、だからここは概念C、そしたらL4「Cですか」、で聞いて「………」でここで変って来て、「あまりいいことしてない感じかな」概念Dに変わる。Dですか。L5が聞いて、「じゃなくて、欲求不満」Eですね。リスナーここでEって言ったら、ここで止まっちゃっているんですね。Eって。こういうふうにここで感じているものがあって、それを言葉にしていこうとしていて、言葉にうまく入らない、だから概念Aにはうまく入りきらない、試みるだけど、違う、こういうふうにして言葉がどんどん変わっていっている、これを僕たちは「展開している」って。しますね。カール・ロジャーズだったら、これをin process という言い方をしたと思います。「過程の中にある」、このプロセスこそが体験過程なんです。つまり、この人は、はがゆいという体験をしているのではない、イライラという体験をしているのでもないのですよ。体験しているのは、過程なんです。こうやって移り変わっていく過程なんです。体験過程って、僕たちがフォーカシングで言っているのはこの過程を言うんです。こうやって、言葉が変わって行く過程ですね。もし、こうやって体験過程に触れることがフォーカシングであるというなら、ここのスピーカーはここをフォーカシングと言っても構わない。からだの感じに触れてくださいという応答があるとかないとか、そんなことあまり関係なくて、自分は何かを感じている、これは何だろうとフォーカスしていっている、と言っても差し支えない。もう一つ、ちょっといっぱいこれについていろんなこと言えるから、もう一つ言っておきたい。はいはい、どうぞ、どうぞ。

Q さっきにみたく意見が分かれて信頼性がないときはどうしますか。

池見 信頼性は、その場合は普通は一人で評定しますから、だから3人が評定して、その3人の評定の一致度が低いということですよね。その一致度が、そこで出た結論が信頼できるかどうかわからない。これを研究に用いたとして、その研究の信頼性が低いということ。

Q  信頼性を高めるには。

池見 信頼性を高めるのに僕たちがやるのは評定者のトレーニングですね。何時間以上とか決めてやります。最低は8時間ぐらいやりますね。

Q   一つぐらいの違いだったらいいですか

池見   100%と1.0だとしたら、だいたい0.7ぐらいほしいですね。70%ぐらい一致がほしいですね。何を統計に使うかですけど、よくやられているのは、二人の評定だったら、12相関とか使って、Rの値が0.7ぐらいほしいな、3人以上の評定者だったらE相関というのを使いますけど、有意な水準はほしいですね。

池見   もう一個だけ。EXP尺度の早見表を見て、気がつくかもしれないけど、フォーカシングの応答ってのは、これのレベルを上げようとしているんだって。クライエントがもともとフェルトセンス話していたら、4か5のレベルでしょ。それはもう、からだで感じてどうのこうのって応答を入れなくていいんですよ。そして、それについて考えてもらったらいいんですよ。たとえば、このもやもやはいったい何だろうとか、私に何を伝えているんだろうか。これは5とかを促しているんですよ。提起を。セラピストのほうから持ちかけているんですね。そして、フェルトシフトしたら6だって。だから6はフェルトシフトですね。だから、フォーカシングのプロセスをこれにおいてみると、4、5、6なんです。4、5、6を促していこうって。4がフェルトセンス、5がそれについて何だろうこれは、とか、この言葉でぴったりかなとか、ここで言えば、イライラかな、イライラでないかな、ここは見出しをつけてもらう、ハンドルをつけていますよね。僕が感じているのはいったい何だろうってこの人はやっていて、それはレベル5。シフトがみられないから、6にはいってない。このスケールとフォーカシングのガイディングというか、インストラクションがきれいに一致している。これで見たら、4~6を促す。そう思うとフォーカシング結構自由にできる。リスニングの中でも、レベルをあげていけばいいんだって。6がくるかどうかは本当にどうしようもないですね。こっちができることじゃなくて、ぱっと来たりする。だから、5にいるってことが大事だと思うんです。ずっと続いている。5から6に行くのをなんとか援助したい。だから、僕はさっきのセッションで言ったら、僕の中で起きていることを言ったりする、ことになったりしますよね。それとか、ちょっとクリアリング・ア・スペースするのもいいかもしれませんね。ちょっと下がりましょう、みたいな。ジェンドリンの事例だったら、お茶にしましょうと、クライエントが言いだすとか。面白いクライエントで。フォーカシング指向心理療法の第10章です。最初はジェンドリンが、さがれ、さがれと言っている。クライエントがうまくそれを理解したっていうか。ずっと止まったままのとき、それこそ5で止まったままのときに、お茶にしませんかと、突然聞いたりする。こういうのもちょっといいかもしれない。

Q   苦しくてもうやめたくなった場合は?

池見  それを聞くと、なんか違うやりかたをしましょうという言葉が僕には出てきますね。5に入っているプロセスはとても気持ちがいいんですよ。だから、もうなんていったっけ、もう疲れたから、しんどからやめましょう、しんどいから、って言っているのをみると、何か違うことしてないかなって。気になって。たとえば、自分をいじめているとか、急いでいるとか、ちょっと違うことしていない?と、だからそれを聞くと、どんなふうにしています?ってことを聞きたくなる。違うやりかたしていないって。いろんな研究があって、岡山大のだれかの修士論文だったか、気持ちを話すと不安が高くなる、それは気持ちが3レベルの場合なんですよ。3のレベルのたとえば、腹が立っているという話しを10分したら、不安、緊張は高くなるんですよ、で5のレベルでこの腹立ちはなんだろう、みたいことを10分すると、気持ち落ち着くんですよ。だから、同じ感情の内容を話しても、EXPのレベルによっては落ち着いたり、逆にしんどくなったりする。レベル高いと、落ち着いてくるはずです。そう、面白いでしょ。このスケールが僕はとても面白いし、勉強になると思う、カウンセリングで何をやっているか。

Q   泣いたりする学生は

池見  6ですね。泣き方にもよるよ。6の場合と3の場合とあるでしょ。3の場合の泣き方だったらしんどいですよね。6なら解放感があると思うんです。何か新しいことに気づいて涙が出ているって。

Q   泣くのはいいことだよって。

池見  6だったら、そうね。3だったら、しんどいかもしれないですね。何が起こっているかもっと話してくれっていうと思う。僕だったら。

Q   そこにいて気づいているのが大事というのはわかるんですけど、そのセッションではもう7に行かないという

池見  7もやってくるかどうかはほとんどわかんない。これはちょっと、来るかどうかわからないので、こっちから7をしかけていくことはちょっと不可能です。6も難しいと思うけど、フォーカシングの問いかけで6を促そうとするけど、やってくるかどうかはわからないです。

Q   じゃあ、せっかくきた6だから、そこを大切にしましょう、とやっているときに7が来ることもある。

池見  そうそう。それは来ることもある。でも、無理やり7にもっていこうとしてもできない。やり方がないです。もちろんここで言っているEXP7というのは、評定できる7です。

Q   6とか7とかいうのが、今ここでのフォーカシングだけでなくて、家に帰ったときとか、そのあとに進むことはあると思うんですけど、この場で6までいかなくてもいいのかなって。

池見  そうです。もちろん、これは研究用尺度なので、心理療法の録音された面接を研究するために作られたから、録音してないところでどうだったかのかわからないし、その人の人生のこと考えると、気づきが面接の後からやってくることは多々あるわけですね。夜、いきなりやってきたとか、考えたらやってきたとか、それはとても大事なことですよね。セッションの50分の中にあるか、外にあるかは紺とルールできないですから。6になると、笑いが止まらなくなるんです。シフトして笑いが止まらない。僕のあるクライエントは僕との面接が終わって、電車に乗ってからシフトしたんです。笑いが止まらなくなって人が見たらへんに思われると思って、ずっとドアに向かって立っていた。笑っていたんだって。わかんないですよね。いきなり、電車の中でやってくるかもしれないですし、で、いいですか。これでまあ有名な研究は、これを使ったキースラーという人の研究が有名で、あれ何本だったな、逐語記録1500本だったかな、ものすごい量で、しかも全員が50回以上面接を受けている人たち、横軸に面接5とか、5から10とかそういう区切っていって、縦軸がEXPで、のちに成功群、不成功群をプロットしていくと、まったく形が一緒だったんですね。少しあがっていって、途中から中だるみしてまた上がって行って、このパターンはまったく一緒なんです。どこでとっても有意差があって、成功群のほうがもともと高いという。だから、ラフに書くとこんな感じですかね。形は一緒、どこで見ても差がある。だからフォーカシングのジェンドリンの本を読んだら、最初に書いてあるのは、シカゴ大学で録音テープを聞いていて、成功群と非成功群は最初からわかっていました、というのはこの話をしているんです。最初からずっと高いんですね。これセラピーを受けて高くなったんでなくて、最初から高いんだって。で、ここに無理やり線を引いてみると、3.5ぐらいのところに来ますよ。無理やり成功、不成功の分け目のポイントはどこですかって言ったら、3.5ぐらいが統計的には出てくる。ジェンドリンの本に戻ると、成功する人は最初からわかるんですよ、成功しない人は最初からわかるんですよ、で、成功する人の仕方を自分たちは調べました、それはフォーカシングでした、って話なんだけど、フォーカシングでなくて、実はEXPの話なんですね。これ、成功する人は何をしていたかっていうと、5、6の話をしているんです。で、こういうことをできるクライエントのことを最初、これをジェンドリンはフォーカシング能力があるクライエントって言っていたの、だからEXPが高い人たちはフォーカシング能力があるって。フォーカシングアビリティーっていった。このアビリティーをどうやって教えるかってことになって、特に、不成功群の人たちに成功群がやっているフォーカシングアビリティーを教えるといいだろうと。そこから、フォーカシングという教示法が誕生するんですよ。だから、フォーカシングが誕生したときは、セラピー、カウンセリングの方法ではなくて、インストラクション、教示法だったんです。フォーカシングアビリティーを教えるための教示法として登場します。こういうふうにシカゴ大でやっていたみたいです。たとえば、クライエントさんの話を聞いていたら、EXPが2とか、どう高くても3とか、こういう人のセラピー続けても不成功予測群ですよね。お金とって続けていいのかという疑問が生じます。だからその人たちにフォーカシングの先生のところに行ってください、そして家庭教師のようにフォーカシングを習ってフォーカシング終わったらまたカウンセリングに戻ってきてください。こういうふうにフォーカシングの先生をつくって、そっち側に、だからフォーカシングの先生はカウンセラーでなくて、フォーカシングの先生、ここでふたつロールができるんです。フォーカシングの先生と、カウンセラー、セラピストっていう。アン・ワイザー・コーネルさんは当時のプロジェクトに参加していないけど、あの人の立場はフォーカシングの先生ですね。あの人は臨床心理士じゃないとか、あの人は心理療法はしない、フォーカシングの教師。昔もそういうふうに始めて、それがフォーカシングの最初だと。ところがこの形がすぐに続かなくなっちゃいます。崩れちゃう。理由はフォーカシングの先生のところに行った人がそっちがよくてカウンセリングに帰ってこなかった(笑い)。そうしたら、カウンセラーも紹介したら患者とられるから紹介できないわけです。このやり方が続かなくなった。ベルギーではちょっとやっていたけど、シカゴではできなくなった。そして、また僕らの世代になってきたときにフォーカシング以外のセラピーを知らない。当時はクライエント中心療法家だったんです。そしてフォーカシングの先生がいたでしょ。僕らはフォーカシングから習ったから、僕たちのときはカールロジャーズさんいなかったから、僕は自分のこと、クライエント中心療法家だとおこがましくて言えない。僕はやっぱりフォーカシングですよ。だから、僕がフォーカシングだけを教えてセラピーをしないという事態はちょっと考えられなくなっている。だから、フォーカシングを教えるのとセラピーが一緒になって教えるだけの役割はできなくなっている。そんなことで初期のフォーカシングの形は壊れて行ったんだけど、今お話したことは、フォーカシングがでてきたいきさつの非常に大事なのがこの尺度なんですよ。もちろん、今朝はなしたような哲学的な背景もあって、ジェンドリンのディルタイの考え方が影響して、できてくるんですけど、基本的に大事にしていたのはリスニング、ロジャーズからきた傾聴技法ですよね。で、その傾聴について研究をジェンドリンはしていた、こういうなかでEXPの5とか6がとても大事だとわかる、それをフォーカシング能力と呼ぶ、そこからフォーカシング技法ができた。こういう流れを今日はやってみたということです。

「傾聴・心理臨床学アップデートとフォーカシング ●感じる・話す・聴くの基本」(池見陽編著、2016年、ナカニシヤ出版)を読んで

  • 2016年8月13日 20:21

 池見さんのタイトル名の最新刊について、要約を以下に掲載します。

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 一般にはカール・ロジャーズの傾聴とジェンドリンのフォーカシングは別ものというとらえ方をされている。しかし、二つは一つのものだということがこの本で明示される。

 ロジャーズは<感じること>を強調した。しかし、<感じるとは何か、いかにあるのか>ということを記述していない。

 ロジャーズによると、中核条件はどんな心理療法でも、治療的な人格変化が起こるときに存在すると仮定している。それは、心理療法面接でなくても、親子関係にも、友人関係にも見られるとしている。中核条件=面接技法だとは考えていなかった。

「感情」「情動」「気分」などの用語が整理されずに用いられる中、ジェンドリンは、「フェルトセンス」あるいは「フェルトミーニング」という術語を用いて、人が「感じる」と呼んでいる体験の仕方を明らかににしていった。フェルトセンスははっきりした感情ではなく、「なんとなく」感じられて、そこに意味が含まれている。「この映画好きだな」という人に、「どのように好きなのか」という意味は「なんとなく」感じられていて、明確な言葉にまだなっていない。「なんとなく」は意味を「含意している」と言うことができる。

「スリルがあるから好きなんだ」といったように、含意された意味は、それを適切に表現することができる言葉によって明らかにされる。明らかになった意味は「明在的」な意味の側面と言われる。含意された意味の側面は「暗在的」な側面と表現されている。

池見(2013)によると、フェルトセンスは「なんとなく感じる」という感覚を言う用語であり、フェルトミーニングは「なんとなく伝わってくる意味」を言うものである。

他方、「私は怒っている」という場合、「怒っている」という明在的な側面だけが語られている。明在的な側面だけが際立っている「感じ」のことを本書では「感情」と呼ぶ。感情の特徴は、それが単一焦点的だということである。この例の場合は、「怒っている」という一つの焦点しか感じられない。ここが、多くの暗在的側面を含意するフェルトセンスと感情のはっきりした違いである。往々にして感情には強度がある。あるいは、「距離が近い」という表現も可能だろう。

心理療法では感情よりもフェルトセンスの方が重要なのである。フェルトセンスに含意される意味を明在的に言い表していくことによって変化が生じるからである。

どんな感情にも、その背景にはフェルトセンスがある。「不安」という感情の場合、「試験を受けるのが不安」「悪夢を見るのが不安」というように、実際の不安の感じ方は異なるはずである。それが意味している感覚はそれぞれに存在していて、異なるフェルトセンスとして体験されている。従来の心理療法は「感情」の方に注目する傾向があった。心理学の調査研究などでも、把握しやすい感情が注目され、フェルトセンスはあまり取り上げられなかった。最近はフェルトセンスとのかかわり方に注目する質問紙尺度も登場しており、<感じ>に触れて生きることの健康上のメリットも徐々に明らかになってきている。

 「感じる」という過程は<からだ>に感じられるものである。フェルトセンスの一つの特徴は、それは<からだ>に感じられるというものである。それは局所的な解剖学的・生理学的事象ではないために、本書では<からだ>というひらがな表現に統一する。

 良質な思考では「感じる」と「考える」は融合している。「深く考える」とはアタマだけで考えるのではなく、<からだの感じ>と照合しながら思考するということではないだろうか。

 感情は「不安」や「怒り」などとはっきり言葉やコンセプト(概念)で表すことができる。フェルトセンスとして「感じる」ものは、はっきりと言葉で言えない、前概念的なものである。<感じる>は前概念的であるから、それはまだ「意味」になっていない。「なんとなく好き」には意味がないのではなく、その「なんとなく」を言い表すと、多くの意味が現れてくるだろう。

 人が「私は悲しい」と概念的に決めつけているときには、「悲しい」という概念のフィルターを通して世界を体験してしまう。そうすると、何を見ても悲しい感情が起こっている。これは「凍結された全体」と呼ばれている(ジェンドリン、1964)。しかし、実際に生きている現実は一瞬一瞬で異なり、新鮮である。これらに気づくためには、瞬間瞬間に「何を感じているのか」に目を向けなければならない。すると、そこには「悲しみ」以外にも豊かに体験されている状況があることが感じられてくる。その意味でも、概念形成される以前の瞬間瞬間の「感じ」に触れることが心理療法では重要なのである。

 人が感じていることをはっきり言えずに言いよどむのは、何かを我慢しているからとか、何かを防衛しているからではなく、人の「感じる」という体験がそもそも持っている「前言語的」性質によるのである。

 人はある状況に「悲しみ」を覚えたり、ある関係に「ワクワク」する。それらは人の「内面」や「性格」の顕れではなく、状況なのである。人は内的世界を介在して現実世界にかかわるのではなく、ダイレクトに現実世界を生きている。「感じ」は「いま、ここの現実世界を私が生きている」という生の感覚であり、それはハイデガーの用語で言うと、「世界-内-存在の一様式」である。

 <感じる>はいつも精密な未来への方向性をもっている。しかし、一般的に人は<感じ>の原因は過去にあると考えがちである。人は自分が感じていることの「原因」を探すことが多いが、感じていることそれ自体は過去の原因によってできているのではなく、むしろ未来の生き方を示す「心のメッセージ」(池見、1995)なのである。

フォーカシングではなぜ<からだ>で直接的に感じられることを大切にするのだろうか。それは、話し手やクライエントが話題として取り上げたい状況について最も精密に知っているのが、状況と直接的に相互作用している<からだ>だからである。言葉でその感じを言い表そうとするのは、言葉が状況とかかわりあうことで、あいまいではあるが確かに感じられている状況の意味を、より精密に理解していけるからである。言葉と状況のあいだのこの精密で創造的なかかわりのことをジェンドリンは、「交差」と呼ぶ。状況と言葉が交差するとき、そこに新しい意味が生まれる。

すぐにはうまく言葉にならない、そのあいまいな質感、「その感じ」を、言葉と交差させていくことによって、その意味はより精密になっていく。心理療法とは、状況の繊細な複雑さについて、メタファーを手掛かりにセラピストとともに焦点を当て、そこにとどまり、あるいはともに歩んでいくプロセスである。(P66)

ロジャーズは彼自身のリスニングを初めて公開した直後、それが「オウム返しの技法だ」とバカにされたことを気にして、それについて詳しく解説しないようにしていたと後になって回想している(1980、1986)。実技としてどのように聴くかというよりも、彼のリスニングや心理療法はどのように特徴づけられるのかといった視点で、聴き手の「態度」を挙げ、それを研究した。しかし、リスニングの実際については、門外不出になり、門下ではジェンドリンが「リスニング(傾聴)の手引き」を著作「フォーカシング」(1981/2007)のなかで公開した。

聴き手は、クライエントの体験が推進していくように、どんな応答をしているのかというと、まず、リフレクションである。クライエントがリスナーの応答によって反射され、映し出された自分の姿を見て、自分の生きざまを振り返って観る、という作用を促す。

 己を知るためのリフレクションに加えて、誠実に感じていることを伝える他者との出会いが必要である。ロジャーズは自分の「理解を試す」ように応答していたし、後に「プレゼンス」という術語を用いて、聴き手に直観的に浮かんできたことを話し手に伝えることについて解説している(1980)。聴き手は単に「リフレクション」を用いて応答して話し手の姿を映し出しているのではなく、話し手の体験を追体験しながら聴いている。そして、ときにその追体験を話し手に伝えることで、聴き手自身と話し手が交差しているのである。

 話し手の体験と聴き手の追体験を重ねるなかで体験が豊かになり、新しい体験が展開する。その展開が「新しい」体験であることが強調されなければならない。なぜなら、人が体験していることには、すべて過去に原因があると考える一般的な傾向が強いからである。フロイトの時代から、そこにあるはずの感情などが不在の場合、無意識の働きだとされてきた。しかし、「無意識に抑圧されていた」というのも、また新しいストーリーなのである。そのストーリーでは、今までなかったことを説明するために「無意識」という概念を用いている。この場合の「無意識」は実体や「層」ではなく、説明概念である。

 ♢ジェンドリンによる「リスニング(傾聴)の手引き」

1)話している最中にフォーカシングという過程が話し手の中に起こるようにする援助方略(2つある)

1-1(絶対傾聴)聴き手は理解したとおりに、話し手の話の要点を、順を追って伝え返し(say back)していく。頻繁に傾聴では話し手が「言ったこと」を伝え返すのだと誤解されているが、ジェンドリンの解説では「聴き手が理解した通りに」となっている。十分理解していないのに、話し手の言ったことを録音装置のように「オウム返し」するのは誠実な関係とは言えない。理解できていないところは「わかりません」「もっと話してください」などと表明する。最初のうちは、話し手が使った言葉をそのまま伝え返すことが効果的である。

話し手が感じていることを正確に理解できるようになると、今度は話し手が表現しきれていないものを指し示すようにリフレクションの応答をする。このとき、必然的に言葉は話し手の言葉とは違ってくる。応答は話し手の発言に暗に含まれている意味、あるいは「感じられた意味」または「個人的な意味」を明らかにする。

例)

話し手 「彼の散らかった部屋の机の上に散乱しているガラクタみたいものを全部、メチャメチャにしたい気になるんです。もちろんそんなことはしないですよ。絶対に、絶対に、家族がいるところでは…」

聴き手 「あなたは暴れたい、でもそれを我慢している」

暗在的側面について正確に感受するには、「追体験」が不可欠である。視覚イメージ、身体感覚や動作まで瞬時に追体験して、「暴れたい」とか「我慢」という表現を見出す。

ロジャーズは「共感的理解」の定義を晩年にアップデートしている(75、80年)。その中で「共感を概念的にとらえると、それは繊細なものなのだが、それを現代人の完璧にわかってもらうように伝えることができる」とし、ジェンドリンの「リスニング(傾聴)の手引き」を引用して解説している。

1-2(フェルトセンスが感じられるようにする応答の仕方)

 絶対傾聴をしていても、話し手は具体的な出来事を伝えることに終始していたり、感情に巻き込まれているようであれば、「フェルトセンスを導く応答」が必要となる。「ちょっと待ってください」などと、聴き手は話し手の発言を遮るときがある。低体験過程レベルの様式に移行していくのを食い止めるためである。そして、その内容にまつわる<感じ>すなわちフェルトセンスのところに立ち止まって、そこから何が浮かぶのかを待つように促す。

例)

聴き手「ちょっと待ってくださいね。暴れたい、我慢している、腹が立っている、何かそんな複雑な感じがあるのですね。そこで立ち止まって、静かにその複雑な感じを感じてみましょう。」

2)聴き手の話し手に対する気持ちや反応を利用する援助方略

話し手の話が<感じ>すなわちフェルトセンスに触れにくい場合、聴き手が話し手に対して感じていることや話し手に対する反応を応答に利用することができる。この援助方略では、聴き手が応答に用いる「気持ちや反応」は話し手についてのものであると限定されている。ジェンドリンの解説では、このような応答をするとき、必ず、聴き手が感じたことや聴き手の反応を質問形式にして話し手に提示するようにと注意が記されている。そうでないと断定的になるからである。

例)

話し手 「え~、息子の不愛想な顔が浮かんできて、朝、起こしてくれと言うから起こそうとしていたら、「もう」「畜生!」とか怒鳴りながら起きてきて私をにらみつけるんですよ。起きた後も、私と顔を合わせないんですね。何も言わないし、挨拶ひとつしないんです」

聴き手 「息子さんとかかわるのはとても辛い。お聴きしていて、そんなふうに私は感じたんですが、どうでしょうか?」

 3)相互作用という援助方略

第二の方略は、聴き手が話し手について感じた気持ちや反応を用いることに限定されていたが、第三の援助方略は、聴き手自身が感じていることを応答に用いる。ジェンドリンは「相互作用(やりとり)の中で暗に起こっていることを明在的に伝えましょう。そして、それについてどう感じているかも伝えます」と解説している。

例)話し手 「う~ん、どうしたらいいですか?」

聴き手 「そういわれると、私は困ってしまいます。困っているのは私の気持ちで、う~ん、なんだか、あなたが私に頼っているように感じて、依存的な感じがするんですよね。でも、そうなると私は困ってしまうのです」

4)グループ(小集団)での相互作用という四つ目の援助方略は、この「手引き」が書かれた時期に、ロジャーズがエンカウンター・グループを、ジェンドリンは「チェンジズ」というグループを実践していたことが背景にある。感じていることが適切にプロセス(処理)されることが重要であると仮定されている。適切に処理されるとは、嫌なことを言い合うのではなく、フォーカシングという過程が生じることである。会議や種々の小集団活動において、ジェンドリンの説く傾聴ができれば、社会に大きな差を生みだすだろう。

 (教示法としてのフォーカシングを解説したあと、「フォーカシングでは何が起こっているのか」と題して)体験過程が動いていくさまは、無意識だったものが意識化される、という古典的な理論の枠組みによって説明されるものではなく、「体験・表現・理解が循環している」とみるほうが正確であるように思われる。ジェンドリンは、ディルタイの解釈学的循環をカウンセリングの基盤となる理論として用いている。

 ♢ロジャーズとジェンドリン:アップデートしていく傾聴理論

 ロジャーズが心理療法の「中核3条件」の中で最も重視したのが➀「自己一致というか誠実さ」(congruence or genuineness)である。Genuinenessは、従来の日本語訳では「純粋性」となっているが、「嘘、偽りのない本物の一人の人間である」ことを意味するので、「誠実」という訳(福島、2015)が最も適切だろう。②無条件の肯定的まなざし、というか、(一人の人間として)認めている(unconditional positive regard or acceptance)。従来の訳語では「認める」は「受容」になっていたが、池見には「受容」の「受」の部分に重たいニュアンスを感じて、「認める」と訳すことを好んでいる。③共感的理解。クライエントの体験を、あたかも自分が体験しているように感じることをロジャーズは「共感」と表現している。

 フェルトセンスに注意を向け、そこに感じることを言葉にしていくことを<フォーカシングという過程>と言うのならば、ロジャーズが誠実さとして説明していることは、セラピストが持続的にフォーカシングをしながらクライエントに接することなのである。

「絶対傾聴」では、話し手の言葉通りにリフレクションするのではなく、話し手が本当は伝えようとしていた「個人的な意味合い」、ジェンドリンのいう「暗在的な意味」「感じられた意味」を理解して、話し手が伝えきれていない意味合いを言葉にして伝えるのである。まったく同じことをロジャーズは中核3条件で「共感的理解」と表現し、ジェンドリンは「絶対傾聴」と表現しているのである。

 ロジャーズが1950年代には「官感的内臓的経験」と呼んでいた、意識から否認されたものは、80年代には「人の中にある体験の流れで、それは生理的で人はそれを意味の根源として参照できる」となっている。それはジェンドリン哲学の「レファレント」(照合体)である。つまり、フェルトセンスにアップデートされているのである。80年代にロジャーズによる理論はフォーカシングにたどり着いたと言える。ロジャーズが自ら「(共感)は有用なレファレント(フェルトミーニング・フェルトセンス)にフォーカスするように援助し、そしてもっと豊かに意味を体験し、体験過程を前に進めることである」と書いている。

 ロジャーズの上記引用部分は75年に最初に書かれている。ジェンドリンの「フォーカシング」は79年に発行されていて、「手引き」は数年前から存在していた。つまりロジャーズがジェンドリンのフォーカシングに合流してきたのは74-75年ごろであると特定できる。ロジャーズを解説する多くの書物が、著名な57年の論文「人格変化の必要にして十分な条件」を解説するために、傾聴とフォーカシングが別ものに映っているが、75年以降のアップデートされたロジャーズの著作に目を向ければ、この二つが合流していることがわかる。

 「こころのメカニズム」「こころの構造」「原因」-心理臨床学はこのようなことにこだわりすぎているかもしれない。「こころ」と呼ばれるものはメカでないから、メカニズムもない。原因や構造ではなく、実際に<感じられている>ところに立ち帰る、というのが本書のアップデートなのだ。

 ロジャーズ自身による75年のアップデートを、池見は心理臨床学やカウンセリング心理学の教科書で見たことがない。なぜか。75年の「共感的理解の再定義」を理解するためには、ジェンドリンによる「リスニング(傾聴)の手引き」とフォーカシングを理解しておく必要があった。日本の多くの教科書が、ロジャーズのカウンセリングとジェンドリンのフォーカシングを別々のものだと決めつけているので、この結び目が理解できなかったのではないか。

「フォーカシング」にみるユージン・ジェンドリンの現象学(池見陽さん論文の要約)

  • 2016年8月26日 07:22

 

  2011年「フッサール研究」第9号、P1-14

 池見陽氏と、岡村心平氏のデモセッションの逐語記録を基に、哲学者向けにフォーカシングを解説した論文である。ジェンドリンは96年以降は、哲学論文のみを執筆し、哲学者に伝えることに熱意を示している。

➀座った感じを確かめる=どこに、どういう風に座りたいかという、<からだの感じ>は、明在的な理由を聞かれてもはっきりした理由はなく、「なんとなく、ここがいい」というように、暗在的に指し示している。フォーカシングでは、話し手が語った明在的な言葉のみならず、暗在的に感じられた体験に注目する。

②体験は象徴を通して言い表されるが、象徴によって体験が再び呼び起こされ、体験が変化し、別の象徴によって言い表されてくる=ジェンドリンの理論では、体験は静止しておらず、体験過程(experiencing)として常に動いている。話し手の「ドキドキ」→「落ち着かない」→「そわそわ」と表現が変化してきている。ディルタイについて「体験、表現と理解は一つである」と強調している。「落ち着かない」という表現した後に過去の場面を思い出し、その表現では、暗在的な感覚を運びきれないことに気づき、「そわそわ」という別の表現に修正した。

③体験は概念のお仕着せを拒否できる=聴き手の理解がわずかにでもずれていると、話し手は理解を修正しようとする。「楽しみなんでしょうね」と、全く異なったかのように思える表現へと進展させている。

④他者の理解は暗在的に感じられる=カウンセラーは話し手の発言を注意深く聴きながらも、自分自身が感じていることにも注意を向け、そこに感じられているにもかかわらず、話し手の発言にはなかった表現を試しに言いあらわすことがある。

例)L:あ、ごめん、僕にはこういう風に聞こえたんだけど、あのなんか、新学期になったら、もっと穏やかに生きたいな、みたいな。

「あなたは、本当はもっと穏やかに生きたいのですね」といった概念のお仕着せにならないように、「僕に聞こえた」という個人的な印象として述べる。この例の発言の瞬間、話し手と聴き手は「交差」していると言えるだろう。

⑤気分的な自己理解の先を言いあらわす=フォーカシングでは、具体的に暗に指示された先を言い表そうと試みる。

 ⑥体験過程の方向性は暗に示されている=暗に示された可能性はなんでもよいのではなく、ある特定の方向にある可能性に開かれたときのみ、体験は質的に変化し、「腑に落ちた」感覚に到達する。この感覚をジェンドリンは実践的な用語ではフェルトシフト、理論的用語では「推進」(carrying  forward)としている=自らの在り方が見えた瞬間、少し興奮するような解放的な感覚を伴って「そうだったのか!」という気づきが生起する。

ジェンドリン哲学について(三村さん講演)

  • 2016年8月26日 07:27

 (2015年6月6、7日・大正大で、三村尚彦関西大教授のワークショップ)
1 哲学者としてのジェンドリン

 ディルタイの研究で修士号(1950)、論文「象徴作用における体験過程の機能」(1958)で博士号を習得。これが後に「体験過程と意味の創造」(ECM)となって出版された。カール・ロジャーズのもとでカウンセリングの実習に参加。カウンセリングが成功するケースの共通した特徴として「自分自身の体験そのものに触れていること」を見出し、それを哲学的な考察によって基礎づけたのが、体験過程理論(Theory  of Experiencing)である。心理学の主著「フォーカシング」は販売部数50万部以上、18カ国語に翻訳されている。90年以降、ジェンドリンの仕事は再び、哲学中心となっている。

 シカゴ大の学部生のとき、対立する立場にある人々とコミュニケーションをとる方法を開発した。まず、その人の考えを丸ごと受け入れる。さらに自分の論点を表現するために、意図的に相手の用語を使う。相手に全面的に同意するわけではなく、自分の論点以外の議論はすべて保留する。ジェンドリンにとって、同一の論点は対立する二つの体系の共通項ではなく、むしろ存在せず、それぞれが一つの理解なのだ。彼の方法の半分を現象学者が共有していると感じて、現象学者と自認した。ある考えがさまざまに表現、定式化できる。その表現のうち、どれが最短でいけるかは、論理的哲学。「さまようことが重要だ、理解はオープンなんだ」というのがジェンドリン。主著の「プロセスモデル」も、(A Process Model)で、「The」でない。私の説明は一つの説明でしかない。

ジェンドリン哲学のすごさは再帰性reflexivity にある。かたまりのどこかに焦点を当てていくが、どれでもOK。自分で語ったことが自分に降りかかってくる。その人に与えられている、現象を手掛かりにして、哲学する。理論と哲学的実践は相互作用していく。「わかりやすい授業とは、大きな声ではっきりと」と、大きな声ではっきりと伝える。

 ディルタイ哲学から、理解がもつ創造性という観点を獲得。同じ論点を異なった仕方で語るジェンドリンの方法が、創造的なものと特徴づけられるようになった。

2 どのようにして体験過程理論、フォーカシングを提唱するに至ったか

 自然科学は自然を説明する。精神科学は人間とその心的生を理解する。精神科学を遂行する人間存在が、人間的生を理解しようとするから、自分で自分を理解するという構造を持つ。ディルタイは説明と理解を区別しようとした。精神科学が扱う人間的なものは、周囲のさまざまな対象や他者と何らかの関係を結ぶことで有意味になる。ディルタイの「体験の構造連関」からジェンドリンが取り出した問題は次の三つ。

 ➀体験したことが、その後の体験に多大な影響を及ぼす「再帰性」②体験の流れは全体としては良いものに向かうという目的論的方向性③全体と部分の循環的関係

 意味は言語によって担われ、言語によって思考や体験が生じるとする英米系の分析哲学の勢力圏にあるシカゴ大学で哲学を修めたにもかかわらず、ジェンドリンは、こうした特徴を共有しない「意味論」「言語哲学」を展開した。現象学とディルタイ哲学から多くのものを引き継いでいるからだ。「意味は単に事物についてのものだけではなく、ある論理的な構造だけでもなく、むしろ感じられた体験過程を含んでいる」(ECM)という。

3 ジェンドリン哲学と現象学のつながり

 ジェンドリンはフッサールから、具体的、日常的な体験の記述が哲学であることを引きついだ。メルロ・ポンティからは心は内部、身体は外部という二元論的な考えの否定を継承した。ハイデガーからは、一般的に考えられている認知とは異なる自己了解と世界了解があること、それらは気分、雰囲気など前言語的であることを学んだ。ジェンドリンが現象学に新たに付け加えたものは、体験の直観と記述の関係に対して、ダイナミックな進展(carrying forward)という観点だ。体験をありのままに記述するフッサールの現象学的記述は、その記述を超えていく変化をもたらし、前進として自覚するべきだという。

 ジェンドリンの最も優れた考察態度は、実体論的思考をしないで、機能的なとらえ方をすることに特長がある。実体論とは、項目を想定し、それ自身が単独で存在しているとみなす。機能的は、その都度の状況や環境の中で、先に関係からみていく。どの時か、今どういう場面かに応じて、意味やシンボルが変わっていく。たとえば、サッカーは選手がポジションに縛られない。状況によって役割が変わる。

 ジェンドリンの言う「身体」は、雰囲気や状況を理解する。肌で感じる、空気を全身で感じて、「あ、これは…だな」と理解する、これを「身体」という。言語や概念を介さないものをすべて「身体」という。「胸のモヤモヤ」だけではない。

 ナラティブアプローチと似ている。違うのはジェンドリンは、再帰性、つまり、フェルトミーニングをシンボル化すると、体験が変わっていくという。ナラティブは、語ることで物語を形成、構成する。歴史記述をすると、歴史がつくられる。ジェンドリンはそうすることで、歴史が変わっていくとまで言う。

4 「体験過程と意味の創造」詳論

 フェルトセンスは、「身体で漠然と曖昧に感じられているもの」と言った規定が与えられている。ジェンドリンは、意味は、対象の指示、感覚的知覚に尽きるものではなく、体験がかかわるという。前概念的な体験過程の次元と、論定的客観的な秩序の次元とが相互作用して意味が形成される。分析哲学では、意味は「富士山」など指し示す対象がある。「う~ん、う~ん」は意味をなさないとされる。真偽が確定できる。ジェンドリンは、前概念的な感じられた体験にも意味あるという。

 体験experience は体験の特定の内容。体験過程experiencingは、体験の働き、作用。体験過程は、本来的に注意を向けるというシンボル化と相互作用している。体験過程が状況への対応可能性として能力化することが、体験過程が存立するということ。

 体験過程を言い表す語としてECMで用いているのは、「感じられた意味 felt meaning」、「前論理的、前概念的な体験 prelogical,preconceptual experience」「感情 feeling」、「経験的なフェルトセンス experiential felt sense」などさまざまあり、ジェンドリン自身が同じことを多様に言えるということを大切にした。

 ■フェルトセンスとフェルトミーニングの違いについて

Felt meaning のmeaning は、言葉の意味。「身体的」というのはかなり薄い。「状況理解」が一番近い。この部屋に入ってきた人が漠然と感じるもの。ジェンドリンは、felt senseと同じ意味というのでも弊害は起きないという。senseは、 割と最初から「身体的」で「からだの感じ」なので、より広い意味。ECMでは出てくる文脈が違う。

 ある文章を読んだとき、その「意味meaning」をどのように感じるかと問う場面がECM、P12にある。「あなたはその意味についての経験的な感じexperiential sense of its meaningをもつ。あなたはどこに、意味についてのそのような経験的感じを見出すだろうか」。ジェンドリンが主張したい「意味」は、体験されるものなのであって、言語哲学的に扱う対象(意味)よりも、はるかに広い概念。

 だが、アメリカという分析哲学が主流の地で、「意味」と言えば、言語哲学的に扱われるものに限定される傾向がきわめて強いこと、それゆえ、「感じられた意味felt meaning」にはかなり強く誤解(あるいは無理解)の危険性がつきまとうこと、これらをふまえて、彼自身が「感じられた意味」を放棄し、「フェルトセンス」という言い方に限定していった。

タウンと人間的な注意(ジェンドリンの講演)

  • 2016年8月27日 22:13

 タウンと人間的な注意(human attention)

 ジェンドリン、2006年、第1回フォーカシング研究所サマースクールで発表

(ナダ・ルー収録のDVDより、上村英生訳)

 

 私たちは人類の巨大な発展の最初の段階にいる。世界中で一般大衆の信じられないほどの発展ぶりがあった。

農業から製造業への転換の中ですべて変わった。大きな人々の進歩が内面的にも外面的にもあった。そして、それは再び起ころうとしている。

今は、製造業にいてモノをつくるのは、人口の5%で十分。私たちは何をしているのか。新しい製品だろうか。私は「人間相互間の注意」と呼ばれると思う。発展した国で人々がしていることは、お互いに注意を向け合っていること。これを「サービス産業」とか、「ビジネス世界」という人もいる。たいてい、一日中、会議を開いていたり、互いにまわすメモを書いていたりしている。

 産業の最初の転換期に新しい人々は都会に住んだ。そこで、私は、新しい言葉で、私たちを「タウン」と呼ぶ。すべての心理学的な洗練、すべての人間相互間の訓練、すべてのセラピー、これらすべてが「タウン」。私たちは「人間的な注意」という新しい製品を生産している。注意を向けることの中にあるのがフォーカシングで、注意の質を上げることの専門家が私たちだと、私は考える。

 私たちは村民でも経営者でも話を聴く人にはだれにでもフォーカシングを教えているが、まだ互いを「タウン」だとさえ考えていない。私が「ただフォーカシングするだけでなく、他のことを学んでください」と言い続ける時、「タウン」について話している。あなたがフォーカシングだけ学ぶなら、私たちはみんな、切り離されたものであり、それは決して真実ではない。私たちが一緒になってこそ、世界に変化が生じるのだ。

 私が知っている非常に多くのフォーカシングをする人々がもはや新聞を読んでいない。それではあまりにも傷つく。彼らはそれについて何もできない。新聞を読みましょう。

 私たちが発展させている新しいプロセスがTAEである。これは、新鮮な思考ができることを教えている。もし、あなたが、言葉が外に流れ出るのを認めるようにしたら、その時、異なる部分を展開させるだろう。

 この哲学全体が、あなたに気づかせる。あなたは、現実とか、人々、あなた自身、子ども、何についてでも、心を配るだろう。それは、カテゴリー(範疇)には入らない。彼らがあなたに与えたカテゴリーにとどまる必要はない。あらゆることに責任ある人々が、まだカテゴリーの中で考えているので、あなたは、それがうまくいかないのは当然だということを知るだろう。でも、あきらめないようにお願いしたい。なぜなら、ものごとは変化しており、とても面白い。あなたは、だまされなければ、それについて考えることができるからだ。

ジェンドリンはこうやってロジャーズに背中を押された

  • 2016年9月 1日 06:44

 フォーカシング創生期の二つの流れ~体験過程尺度とフォーカシング教示法の源流~

 田中秀男 池見陽(関西大大学院心理学研究科)、サイコロジスト:関西大学臨床心理専門職大学院紀要2016年、第6号、P9~17

 

 クライエントが「いかに話したか」に関するリサーチには、ジェンドリンは最初から主導的な立場で参加していた。しかし、「ある種のクライエントたちへの治療は失敗することが予測できてしまう」ことに関する別のリサーチには当初は抵抗を示していた。

 1956年にジェンドリンらが発表したリサーチ「セラピーにおける過程と結果のカウンセラーによる評定」に注目する。治療の成功と関係なかった項目は、クライエントが「治療関係をとりわけ話題にしていたか/現在のことを話題にしていたか」だった。これは、セラピストがよって立つオリエンテーション(ロジャーズ派、フロイト派など)によって違ってくると予想された変数だった。治療の成功と相関があった項目は、クライエントが「治療関係から新しく重要な体験が生じたか」「感情を直接的に『表現した』か/感情について『報告した』か」だった。これらの変数は、ジェンドリンらによる新しい尺度で、“いかに”話したかに関する変数だった。

 この学会発表の基盤には55年の理論論文があり、クライエントの話の内容とは別の変数を取るべきという仮説が提示されていた。しかし、この論文には難点もある。セラピーが進みさえすれば、クライエントの体験過程はおのずと「構造拘束的」から「プロセス的」になるとされる。今日のフォーカシングの立場を比べて楽観的である。ある種のクライエントはセラピーで失敗が予想されるという事態は想定されていないからだ。

 シカゴ大で上記とは別の流れもあった。ある種のクライエントはロジャーズ流のセラピーで失敗が予想されるというリサーチで、ウィリアム・カートナーが主導した。その研究成果は、「感じられた不安の原因や解決を」、成功するグループは「自己の内部に」、失敗したグループは「外に求める」という結果だった。

 カートナーの修士論文提出(55年)の翌年、シカゴ大カウンセリングセンターでの出来事をジェンドリンが2002年に回想している。それによると、「研究結果を配布されたとき、スタッフは一同激怒した。面接が始まって数回で、このケースが失敗するかどうか、おおよそ見当がついてしまうというのである。きっと何かの間違いではと、私たちは口々に言った」「ロジャーズだけが、じっと黙っていた。そして『事実はいつだって味方だよ』と言った。ロジャーズのオフィスに行き、私が食ってかかろうとしたところ、ロジャーズからこう言われた。『今回の研究結果が、きっと次の研究の足掛かりになると思うよ』」

 「部屋を出ようとして、ふたりドア口に立ったところで、ロジャーズは私の肩にぽんと手を置き、ぐっと力を入れながらこう言ってくれたのである。『ほら、ここから先をどう進んでいけばいいかはきっと“君が”見つけ出す、私はそう思っているよ』」

 クライエント側の条件を見出すように、ジェンドリンの背中を後押ししたのがロジャーズだったと言えるだろう。

 話の内容ではなく、“いかに”話したかに絞ってその後の研究が進められ、先に挙げた「感情の『表現』/報告」はのちの体験過程尺度のレベルの高低に受け継がれた。

 ウィスコンシンでの統合失調症プロジェクトの成果としてジェンドリンは有名な論文「人格変化の一理論」を公刊(1964年)した。ジェンドリン(64年)において、「“いかに”話したか」のリサーチ結果から、成功するクライエントの中で起こっている現象を記述して「フォーカシングの四つの位相」と名付けた。心理療法が成功するためのクライエント側の条件を論述できたという意味で、カートナーの問題提起にこの時点でようやく応え始めたと言える。次の段階として、ジェンドリンは四つの位相が起こりにくい話し手を手助けするためのマニュアルに着手する(68年)。この段階ではまだ機械的で自動的な教示の羅列にすぎなかった。これに改良が加えられた結果、フォーカシング教示法(81年)へと発展するに至るのである。

 一般に、ロジャーズの理論がセラピストの態度を中心に据えているのに対し、ジェンドリンの理論はクライエント個人の体験過程が中心であると、論じられている。しかし、実際に、当初はカートナーによる「クライエント側に別の条件が必要」というリサーチ結果をあっさり認めたのがロジャーズであり、抵抗を示したのがジェンドリンだった。

ジェンドリンの逝去を悼んで

  • 2017年5月 2日 20:07

  父が亡くなった時、母が亡くなった時を私は一生忘れない。それと同じように、ジェンドリンの死も、今は、受け止められないが、やがて、生涯忘れられない悲しい出来事として残るだろう。

 彼の業績については、多くの先生たちに譲るとして、私は新聞記者として2005年11月7日にニューヨークでインタビューした記憶をたどりたい。

 当時、78歳の彼は、70代には見えない精かんな印象を受けた。

 当地で開かれていたフォーカシング資格認定ワークショップ(ウイークロング)に同行した三宅麻希さんが通訳し、写真も撮ってくれた。

 「フェルトセンス」を新聞の読者向けに、わかりやすく説明してもらおうとする私に対して、彼は言葉にこだわらず、その意味するところを、自分なりの表現で説明すればいいと話してくれた。

――「フェルトセンスという言葉を使うかどうかじゃなくて、自分の経験としても、フェルトセンスがどういうものかというのは、あると思うから、そういう言葉を使うとしても、ちゃんとそういう言葉を説明したほうがいいと思うよ」(ジェンドリン)

 いつも本で覚えた訳語を使わなくても、「なんか、胸やおなかのあたりで待ったをかける感じ」とか、「むずむずして、どう言ったらいいかわからない感覚」とか、もっと自由に自分の体験から語っていいというのだ。

 「フォーカシングを習うにはクライエントである必要はない」という彼の本の記述についても尋ねた。

――「私はあなたがすべて1人でできるということを意味するつもりはありません。あなたと議論したり、彼らの考えをあなたに言おうとしたりせずに、あなたの話を聞くことのできる人と相互作用することが重要です。あなたのフォーカシングパートナーは、セラピストでなくても、専門家でなくても、何かを知らなくてもかまいません。あなたの話を聞いて、彼が理解できないときにあなたにそれを言うことがすべてです。そして、それから、あなたは対抗する人とも相互作用をもつ。どんなこととも相互作用をもつことが大切で、あなたが考えている極端に感じる何かとさえそうです」(ジェンドリン)

 とかく、フォーカシングは内面だけに注意を向けると誤解されがちだが、彼は相互作用を強調した。「インタラクション ファースト」の哲学的な大切さに当時、私は気づいていなかった。今になって、彼の言葉が、難しい状況に向かう励ましになっている。

 今年3月、私は62歳になってフォーカシングにまつわる修士論文を書くことができた。ジェンドリンを知らない周りの大学院生に、今生きている偉大な研究者であり、思想家でもあることを知らせたいという願いを、生前に果たせた。2017年は、「フォーカシング」に出合って32年の私にとって、節目の年として刻まれるだろう。

 これまでの人生を振り返ると、彼がいて、フォーカシングがあったから、心の杖がいつもあった。彼が、いなかったらどうだったか、想像もつかない。残る人生、彼の言葉を単に真似るのではなく、自分の言葉で伝えていく、ジェンドリン哲学の一伝道師になりたい。

ジェンドリン講演の録音テープ

  • 2017年5月15日 20:44

  両親の実家を壊して改築することになり、実家に置きっぱなしだったものを整理しています。大半が、ごみで捨てるのですが、貴重なものも見つかっています。

 両親がとっていてくれた私の子供時代からの作品や成績表も、母の書いた育児日誌とともにありました。実家に置いたまま、ホコリをかぶっていたカセットテープやMD、CDを廃棄しようとしたところ、中にジェンドリンの来日講演とワークショップの録音テープがありました。

 私が1984年ごろ、「フォーカシング」の本を読んだあと、もっと勉強したくて、購入したものです。当時は、ほかに本も教材もありませんでした。通訳つきで、話の内容は、今もとても新鮮に聞くことができます。生のジェンドリンの声を聴いたことがない方は、ぜひ、一度、お聞きください。セラピーが成功した人はどこが違うのでしょうか。単に内面に注意を向けて、内面的なことや感情を語っているかが分かれ目ではないのです。ジェンドリンが、言葉にはすぐならないが、からだで感じられるものについて、ゆっくりしたペースで語っています。ああ…捨てないで良かった。

アジアフォーカシング会議の感想

  • 2017年9月 1日 19:06

  神戸市の生田神社で8月24~26日に開かれた第1回アジアフォーカシング国際会議に参加しました。

 日本語、英語、中国語、韓国語が飛び交い、私は台湾や香港の人と同じ小グループになりました。フォーカシングのことを台湾では「澄心」、香港では「生命自覚」と書くそうです。漢字1文字で相手を表現すれば、相手をどう感じているかが、なんとなく伝わる漢字文化圏の共通点を楽しみました。私自身、元気が出る意味深な漢字をたくさんいただきました。

 池見陽さんから追体験と交差の理論、得丸さと子さんからTAEの交差の楽しみ方、土井晶子さんから働く自分を元気づけるポジティブメンタルへルス、三宅麻希さんから質問の効用、三村尚彦さんからジェンドリン哲学の可能性を学びました。

 来年は、新潟でフォーカサーの集いが開かれます。北海道からも多数の参加があればうれしいです。

秋を彩った堀尾さんのワークショップ

  • 2017年10月16日 21:00

  堀尾さんのワークショップを<間をとって>1週間後の今も味わっている。

 間をとると、随分、違う、自然の感覚になるということを実感できた。感情とニーズのカードも、ある意味で、生の感覚と適当な<間をとる>ゲームだった。特定の人との関係を思い浮かべるワークも、付箋を使って、気持ちを一つずつ置いていくことで、その人と適度な<間>をとれた。それゆえに、感じにのみこまれず、深いワークをできた。

 ワークショップ会場のかでる周辺では、街路樹のナナカマドが赤い実をつけていた。北大の植物園でもお昼を食べ、深まりゆく秋も味わえた。SFPの例会に堀尾さんが参加して、デモンストレーションのセッションを見せてくれた日を含めて、2017年の秋を彩った3日間だった。

「フォーカシングを使って書き記すことによる社会の改良」論文

  • 2018年3月17日 20:01

  「フォーカシングとTAEを使って書き記すことによる社会の改良」という私の論文が、北海道教育大大学院研究紀要「学校臨床心理学研究」第15号に掲載されました。

 3年間にわたって、大学院で学び、まとめた修士論文を要約し、一部加筆しました。本日、研究紀要とともに、論文の抜き刷りが自宅に届きました。研究指導教員だった庄井良信先生、紀要掲載にあたって指導してくれた宮原順寛先生にあらためて感謝します。

 フォーカシングと書くことの接点を探るライフワークの一里塚です。長年、新聞記者を務めた私にとって、フォーカシングは、個人の成長だけでなく、より良い社会を築くことにも役立つということを実証したい狙いもありました。

ジェンドリンが遺してくれたもの(村里さんその①)

  • 2018年5月 4日 16:17

  日本ジェンドリン学会第4回大会(2018年4月30日・明治大)で、村里忠之学会長が「ジェンドリンが遺してくれたもの」と題して講演しました。特に、私の胸に響いてきた部分を以下に書き記します。

 僕たちは、自ら他者との豊かな交差を展開したいと願っています。願わくば、より善い交差を生起させたい、そのような時代が実現できたらどんない良いだろうと思います。フォーカシングもTAEもそのためにあると、ジェンドリンは信じていたと思います。フォーカシングが単に個人の傷つきの癒しに留まっては、ジェンドリンの遺したものは、半分も理解したことにならないと思います。  心のより良い制御の仕方が方法化されるのはそれが個人のためだけでなく社会のためでもあるから大事だと思いますが、それが創始者の精神から逸脱することはどこにでも起こりうることです。創始者の精神はどこに保持されうるのでしょうか。それは、各自の身体知つまり私たちのフェルトセンスにですね。これは交差の良い例です。フェルトセンスは良い交差の場所ですね。そこから生起する表現形は様々に違っていても、各自の身体知(キリスト教では、神は汝の魂に有ると言っているように思います)において交差は生起する。それらには身体知的によく観れば、創始者の精神がいわば「家族的類似性」として「同一」に保持されるのではないでしょうか。これは、ジェンドリンの法則IOFI(それ自身の例)ですね。身体は思考より非論理的あるいは超論理的ですが、より自然です。身体はより普遍的、より基礎的です。

ジェンドリンが遺してくれたもの(その②)

  • 2018年5月 4日 16:44

  カーリング娘の「そうだね」は言語による一致の原初的な形です。ダイレクト・レファレント(直接照合体)とエッジ(辺縁)、フェルトセンスは「家族的類似性」として同一です。内側ですっきり言語化されていないものがフェルトセンスですね。クロッシング(交差)とインタラクション(相互作用)も同一です。ジェンドリンは文脈によって理解しやすい方を使う。この用語の方がこの文章の構造に合っているからという理由です。用語が違うから別でないかと、読む側は不安になります。フェルトセンスとフェルトミーニングを区別して使っている人がいますが、本当かなと思います。ジェンドリンは区別しているかなと、検討する余地があるでしょう。

 概念と概念が違うかどうかにこだわらないで、自分のフェルトセンスに戻るほうがいい。こだわりすぎるとうまくいきません。サイエンス(科学)はこだわるのですが。あいまいなものを大切にするフェルトセンスは有益です。「そうだね」をもっと生かすことです。

 遺産は、図書館や博物館の中に死蔵されては、真の遺産になりません。後の世を生きる人々に「交差」によって、別の形で生きられて、真に「遺されたもの」になると思います。自分はフォーカシングを生きているだろうか?自分が自分であって、その自分を失わずに、自然を含めた他者との相互作用(これは交差ですね)を実践する。つまり他者に自分を開きつつ、しっかり手ごたえを持ちながら個体としての自分を維持する優れた方法です。フォーカシングと言っても言わなくても良い。フェルトセンスと言っても言わなくても良い。自分の身体知に耳を傾け、それと相談しながら生きる。これがどうやら人がその人として生きる一番確かで結局は一番安全な方法のようなのです。

 これは道徳教育の源泉でもありうると僕は思います。この価値が多様化で混乱しているように思われる社会で自分はどうしたら「正しく」生きることができるだろうか?という人生の基本的な問いに「内側に注意を向け(フォーカスし)身体知(フェルトセンス)が到来するのを待ち、それにしっかり耳を傾け(dipping)、それと相談し交差(crossing)しながら生きる」。これが真の道徳的態度・努力だと思います。道徳教育を制度化しようとする安倍さんなんかが、このように生きていると思えますか?

 フォーカシングは意識するしないに関わりなく、自己の内側で、また他者との関係において、より良い交差を生じさせる方法です。仏教では縁起と言います。フォーカサーはある問題に関して自分の内側に生じるフェルトセンスにフォーカスし、直接照合します。この時はいったん自分を閉ざします。これも大事ですね。ジェンドリンはこれを「創造的退行」と呼んでいます。彼はあるワークショップの時、短い時間何かに思いを巡らせていたようでした。現場をずっと録画していたナダ・ルーがジェンドリンのピンマイクを外そうとしたのです。「マイ・タイム!」と彼は怒鳴りました。彼は愛想よくないんです。いつも周りに気を使って愛想よくしなくていいんです。Dippingは一人の作業ですね。そしてそれから自分=フェルトセンス=主体を他者へ環境へ開きます。そうすると、フェルトセンス=自己=主体は他者と交差します。この交差はいわば自然に生起します。

ジェンドリンが遺してくれたもの(その③)

  • 2018年5月 6日 22:24

 ジェンドリンはTAEに「社会的意味がある」と語ります。そしてワークショップでも、フォーカシングの個人的治癒の方法とは区別していました。

いわゆる健常者とみなされている人々が、内側に触れることが下手くそなために、僕たちの世界はバラバラな自己主張に満ち満ちています。自由を上手くつかいこなしていない感じがあります。そしてそれは時代の先行きを不透明にして、不安の雲を厚くしているかのようです。

TAEはロジャーズのエンカウンターより社会を善導する力を持っているのではないでしょうか?僕にはそのように思えます。ところでジェンドリンでさえ、困難と思っていた、身体知からの思考法であるTAEは、フォーカシングと同様なかなか使いこなすのが難しいところがあります。得丸さん(得丸智子さん=開智国際大教授、札幌でもTAEワークショップを開催)はこのTAEをより使いこなせるように様々な工夫を発明しておられます。フォーカシングによるアン・ワイザー・コーネルのような役割を果たしつつあるのかもしれません。

「ジェンドリンが遺したもの」は、これからますますその成果を拡充していくのでは、いやそうでなければならないと僕は考えています。これは人間と人間の社会を改善する堅固な一つの方法だからです。ある時僕は彼の「A Process Model」を「A Book of Hope」と呼んでいるよ、と伝えたのです。彼(ジェンドリン)は黙って笑っていました。その笑顔は今も僕の心に残っています。

修士論文の要約

  • 2018年5月10日 20:16

 本研究は、フォーカシングを使って書き記すことによって、社会の改良をもたらす可能性を明らかにすることを目的とする。

フォーカシングは個人の成長やいやしのための方法ととらえられがちだが、創始者のユージン・ジェンドリンが強調した通り、社会の改良につながるものである。なぜ、そうなのかを彼の哲学、心理学の理論から探る。学校の授業や個人の執筆で、からだを使って作文する教示方法を開発したソンドラ・パールの研究にも言及する。

ジェンドリンが、書きながらその人なりの普遍的理論をつくる方法として発表したのがTAEである。

本論文では、このTAEを上村自身の新聞記者体験から浮かぶ暗黙知の言語化に用いた。そこから浮かんだリサーチクエスチョンを基に、フォーカシングと書くことの両方に精通し、社会に好影響を与えている3人にインタビューした。データをTAEで分析した結果、4つの仮説的命題を見出した。

第1に、書く前の人との相互作用が重要である。第2に、直接照合体(フェルトセンス)が形成されると、納得いく文章を書けて、人とつながれる。第3に、1人称で例を挙げて書くと、読者が追体験して理解しやすい。第4に、直接照合体の形成からもたらされた実例を書くと、社会を改良する可能性がある。

 書く作業は、多くの人に読まれることで、社会をより良く変える可能性に富む。

初心者プログラム

  • 2018年9月 3日 21:00

 (著作 フォーカシングプロジェクト大澤美枝子 改訂2002年11月、改訂2018年9月上村英生)

<新しい人への1段階目のサポート>

1、全体グループで簡単な自己紹介だけして、サポート役と2人グループになるか、別室へ移動

 新しい人とサポート役2人で始める

 サポート役がガイドして、クリアリング・ア・スペース(心の整理)

 「クリアリング・ア・スペースのガイドの言い回し」を用いる。(丁寧にやり方を説明する)

2、紙に描くクリアリング・ア・スペース

 *二人とも描く

3、だまって聴くリスニングの練習

 *最初なので、フォーカシングではなく、心の整理の感想などを話してもよい。

 フォーカシングということにこだわらず、目を閉じてゆっくり内側に注意を向けて話す。

 *紙に描いた気かがりの中から、あまり大変でない問題をひとつ選ぶ。

 *一人5分ぐらいで短くクリアリング・ア・スペースについて話す。

 *まずはじめにサポート役が、セルフガイドでわかりやすく声に出して話す。

 新しい人にだまって聴くリスニングを体験してもらう

 *役割交代

 新しい人が同じように一人でフォーカシング的に話す。

 サポート役のリスナーは、だまって聴く。

 *二人でシェアリング

4、全体のシェアリング(時間がうまく合えば、全体に合流する)

 *感想を述べてもらう。

~サポート役は1対1で、その都度、やり方の説明を丁寧にする~

<新しい人への2段階目のサポート>

1、全体のグループで簡単な自己紹介と、ちょっと先回の感想を話してもらって、サポート役と移動して、2人で始める

2、「クリアリング・ア・スペース ガイドの言い回し」を用いて心の整理をする。

3、なるべく全部を伝え返すリスニングの練習

 *新しい人がフォーカサー

 問題を一つ選んで、セルフガイドをする(前回同様に)

 *サポート役のリスナーは、なるべく全部を伝え返す。

4、役割交代

 *新しい人がリスナーをする。なるべく全部を伝え返す。

 *サポート役は、セルフガイドでフォーカシングする。

5、2人でシェアリング

6、全体のシェアリング

 *感想を述べてもらう。

~サポート役は1対1で、その都度やり方の説明を丁寧にする~

 3回目からは、はじめから全体の練習会に入る。

村山正治さん「私を語る」

  • 2018年10月17日 21:50

(2018年10月6日、かでる27、上村筆記メモ、写真はビジョンワーク休憩中の歓談)

    *上村の耳で聞いた記録なので、文責は上村にあります

 Ⅰ 京大教養部・教育学部学生時代(1954~1958)

 結論から言うと、「自己実現」より「1人1人が納得いく人生」を。この講演が、自分の納得いく人生を送る、一つの参考なり、ヒントになればいい。

 僕は84歳。僕が残された人生で何をやりたいか。21世紀は、自己実現の時代と思っている。日本の社会は反対の方向に動いている。いろんなことをやって、一人ひとりが納得いく人生を送るにはどうしたらいいか、考えながら皆さんと生きていきたい。

 卒論では、ロジャーズとピースワンガーの哲学の違いが、どうしても自分には必要だった。迷うことは非常にポジティブなこと。迷いが大切。迷いを安心して迷える環境をつくらないといけない。迷っている人を見守ってくれる人が大事。安心して迷える場をつくるのが教師の役割だ。

Ⅱ 京大大学院時代(1958~1963)

 カウンセラーとして、研究者として生きる方向で実践と研究に動き出す。

 将来の方向が決まるというのは、すごくエネルギーが出てくる。本人が気づかないで変わることが多い。それから仲間がいた。ピースワンガーは理論だけ。僕が求めていたのは、生きる糧というか、ロジャーズは実践家だし、自分にフィットする哲学を提供してくれた。登校拒否の子のカウンセリングがうまくいった。最大の問題点は相談に来ない。親だけがくる。京大の相談室で精神科から、「この子は強迫神経症だからおまえやれよ」と言われて、不登校の中3の家に1年間に30回行った。ロジャーズの本も大事だけど、みなさん自分の実践から学んでください。二つの本があった。ロジャーズは統合失調症の病室に行って、何もしないでいる。「治すなんて考えちゃだめだよ。一緒にいること」だという。

 学校の先生は、予告しないで行く。僕はセラピーのモデルを訪問に持ち込んだ。「◎日の×時に行くよ」。逃げる自由も与えた。契約してやった。治す人でなく、一緒にいるんだ。

 訪問すると、出てこない。におい、何を感じるか。暗いな‥とか。自分の選択することがいかに大きいことか、自分の真価を自分で決めること。年賀状が今も続いている。学校に行くとか、症状にとらわれない。ご本人がどういう気持ちか。当事者目線と、社会目線を分けて考えた方がいい。当事者がどういう気持ちか。両方いる。特にカウンセリングでは、当事者目線が大事。

 精神の患者には病名をつけない。本人につけさせる。カウンセラーとして、やっていけるかもしれないという自信を得た。

 ロジャーズは、自分の経験が一番大事だという。何が必要かはクライエントが一番よく知っている。クライエントの考え方を信用する、信頼する。当事者が決めることを専門家がどう支援するか。生の経験は面白い。自分も変わらざるをえない。セラピーはクライエントとの共同作業である。

Ⅲ 九大教養部キャンパスカウンセラー時代(1967~1973)

 統合失調症の学生が多い。簡単には治らない。トータルケアとうい考え方。薬が多いと、クライエントは勉強できない。治療ではなくて、支援という考え方でないと、仕事ができない。学内の友人を教えてもらい、学生と信頼関係をつくる。「今、あいつはパチンコ屋にいます」とか、学生の支援がないと務まらない。友人3、先生2、医者2、カウンセラー3とか、ケアマネのような役割。カウンセラーは支援する人、味方になる人というのを徹底した。難しいケースには支援がいい。続けて支援する。学生同士の援助力のすごさは、エンカウンターで知った。

 1968年ごろ、大学紛争と出合った。グループをつくって、人間関係を大事にする会は、一種の社会変革。ルールなし、会長なし、1967~1968年に福岡人間関係研究会を作った。だれでも参加できる。

 自分の欠点に振り回されないことが大事。スクールカウンセラー制度をつくるとき、自分にできないことが見えていたので、校長や精神病院長らに来てもらった。一人で抱え込まない。できないことは、ほかのできる人を見つけて、組織する。人の助けを借りることも能力。弱さの強さ、弱いことを認めることはそれで強くなること。

  京大で高坂先生は、「自分の人生は人に操られたとこがある」と言っていた。学術的業績も大事だけど、自分が納得する生き方をすることが大事と学んだ。人生無駄なことは何もない。そのとき役立たないことでも、あとにならないと、わからない。今やっていることを大事にして、自分の中で育てていく。

Ⅳ ロジャーズ研究所時代(1972~1973)

 ロジャーズのパラダイムシフトは、(1)理屈でなくて、事実を示す、やったことを大切にする(2)従来のカウンセラーは問題を治す。カウンセリングの成功と失敗例を逐語で比べたら、どちらも問題解決していない。見方の違いが生まれると、成功していた。何が起こっているかというと、安全な環境で、その人の自己肯定感を高める。肯定的自己イメージが現れてくる。

ノーベル賞をとった本庶さんでないけど、ロジャーズやジェンドリンの理論も信じるのではなくて、一つの地図なんだ。地図は現実よりも古い。地図はどんどん変わらねばならない。仮説にはいろいろなメリットがある。見えなかったら、地図を変えればいい。仮説として受け取って、これはダメだなとか、ロジャーズのいいところは学ぶけど、自分でつくっていく。

 ジェンドリンがチェインジズという、エンカウンターとフォーカシングを使ったグループをやっているというので、これを見ておきたいと、手紙をかいたら、おいで、というので、行った。当時、ケネディ大統領の時代で、精神病院の改革が叫ばれ、病院に入れっぱなしにせず、地域でケアしろという、受け皿でもあった。週1回、フォーカシングとエンカウンターの会を開いていたのが気に入った。チェインジズのやり方は、社会を変えていく一つになる。そのあと、日本にジェンドリンを呼ぶことになった。

 フォーカシングでもエンカウンターでも、資格とか関係なくやれる。エンカウンターは、セラピーではなく、1960年代に起きたアメリカの市民運動みたい集中的グループ経験。畠瀬稔さんが学んできた。ロジャーズは一つのやり方。当時の米国社会のニーズだった。

 1982年、九州大で日本心理学会をやるときに、ジェンドリンを呼んで、招待講演してもらった。

 エンカウンターは、サードプレイス。心のつながりと安心感、いやしの場。できるだけその人がそのままでいられる。最初は合宿方式だった。「フォーカシング」の本のリスニングの手引きが、お互いを援助するために役立つ。ジェンドリンの作ったground rule for groups は、フォーカシングに近い。グループを信頼すると、グループが動いてくれる。福岡人間関係研究会は50年間も続いており、今は私と妻のマンションを場所に、1回3時間開いている。

ファシリテーターは、自分のままでいられるその場の雰囲気をつくる。エンカウンターグループで、仲間を得た、自分が変わった→いいところが見えてきた→自己肯定感を得た。自分の持っている良いもので生きる。自分にないもので生きろ、と日本では言われる。もっていないものはいっぱいある。Aは欠点は◎、Bは×、Cは▽という具合にだれでも欠点があるので、気にしなくなる。自分の欠点と距離がとれる。振り回されなくなる。エネルギーをいいところに使えるようになる。

 全体の状況を頭で考えるのではなく、自分のにおい、肌、フェルトセンスで感じることが、だんだんエンカウンターグループの中でできるようになった。人に助けてもらう。批判はダメ。①まず、私はあなたの良いところをここだと思っていると、いいところを探す→だんだんほどけていく。深い話ができるようになる。次に②私はこう考えているという。批判することが相手をよくすると日本人は思いすぎている。新しいエンカウンターグループでは、「こころの花束」(村山正治編著、「PCAグループ入門」に収録)というワークをしている。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

  上村注:「こころの花束」の目的は、メンバー1人ひとりの魅力、良いところ、尊敬できるところ、長所をお互いにフィードバックし、自己理解と自信を深める契機にすることにあります。進め方は、上掲書P232にあります。この本を村山さんは、ワークショップ後、福岡に戻ってから上村に送ってくれました。札幌フォーカシングプロジェクトの活動に生かしてほしいと気持ちと受け止めています。

新しい事例検討法(PCAJIP)

  • 2018年10月17日 22:01

 (2018年10月7日、村山正治さんの話、札幌かでる27、上村メモ)

Ⅰ 経緯

Ⅱ 新しい視点・基本的コンセプト

 ①従来は事例提供者が出した事例を主役にする。PCAは安全感を大事にする。事例を出した人が納得するように。やってみると、「訓練ではない」という人がいる。これは訓練ではない。提供者を大切にサポートする。批判的要素を減らす。訓練は、こっちが正しい。それに当てはめる。

 ちなみに、調査は調査された人に意味がないとダメ。半構造化面接は、面接の深さで相手の答えは違うはず。深いところが出てくる、こっちの予想しなかったものが出てくるところがいい。

 ②場はコミュニティ。1人1人の体験ですばらしい知恵を出すことがよくある。みんなでやっている。最近は一人の専門家だけでやれるケースは少ない。治療というモデルは通用しない。せっかく大勢の人が来ていて、知恵を持っている。それをなぜ使わないんだ。それで救われることがたくさん起きている。話題提供者の気持ちがわかった人の知恵。

 ③参加者はリサーチの研究協力者。

 ⑥当事者モデルでは、当事者を理解するのが一番大事。心理療法で何か効果あるのかという研究で、クライエントの力、体験が40%、クライエントの期待が15%、セラピストがつくる関係が30%、セラピストのスキルが15%だった。クライエント側のファクターが大きい。セラピストのつくる関係では、共感的理解が一番高い。クライエントが「あのカウンセラーは私をよく理解してくれる」という時が一番。クライエント側の受け取りが大事。「理解」することを試みることが大事。当時者は自分に必要な援助は何かをよく知っている。支援の全体像を知ることにPCAGIPは役立つ。全体像が見える。顕微鏡派と望遠鏡派がいる。私村山は望遠鏡派。顕微鏡は精度が低い。クライエントが要求してきたことに、それなりに対応することが大事。それ以外は本人がやっている。図示するとわかる。臨床の人は意外とそれをやらない。例に挙げたケースでは、この人が専門家として役立っていることは、メールをきちんと送ること、それだけでいい。一人だけの専門家がかかわることが現代は少ない。

 ⑦結論よりヒント。従来パターンの解決というより、事例の見方が変わる。その人についての見方が変わる。たとえば、「3年かかるね」と言われて、事例提供者は焦っていたことに気づく。おさまるものが出てくれば、それでいい。複雑な事態こそ、あせってはいけない。抱えていく。ロジャーズ(1961)は「問題が難しい事例こそ、急いで解決しなくなる。当時者を徹底して理解することこそ役に立つ」という。やたらと解決してやろうとしないで一緒につきあう。東洋的な考え。長い目で見るとその方が効果的。 Ⅲ 手順 1)B51枚程度(200字ぐらい)の紙を用意する 2)メンバーが順に質問して、事例の状況を理解する。ひとりが発言を独占しないために、「順に」というのがいい。3)質問は、話題提供者の話を聴いて、聞いてみたくなったことをきく。記録係はポイントだけ白板に書く。4)二巡したら情報の整理をする。5)ファシリテーターもメンバーの一人なので質問もする。多様な視点が出てくる雰囲気をつくる。6)2時間程度で全体像が見える。

「マインドフル・フォーカシング」を読んで

  • 2018年12月23日 22:19

  デヴィッド・ロームの「マインドフル・フォーカシング 身体は答えを知っている」(日笠摩子、高瀬健一訳、創元社)を読んだ。

  この本は2016年に出版されて話題になった。デヴィッド・ロームは2017年の神戸でのアジアフォーカシング会議に来日して、講演をしているので、直接、話を聴いた方も少なくないだろう。私はフォーカシングにひかれてSFPに来た哲学研究者、井本精一さんにフェルトセンスを教えるのに、この本を紹介し、自らも読んでみた。得るところが多かった。

 本書は、井本さんが専門にする生物学者マトゥラーナらを紹介して、生命は進行形の自己生成プロセスであると説く。

 「難しい決断をする」第15章では、人生を前に進めるとは、具体的な状況での決断によって、私たちの生命全体が進展し、私たちの基本的な健康や成長が促されることであるという。恐れや怒りなど否定的な気持ちを認識しなじんでおくことは、自己理解や賢明な決断や人生を前進さエネルギーへの王道だいう。恐れは、私たちの健やかさを守り、私たちの行動を導くために存在しているというのだ。感情と主たる自己との間の対話が必要で、その中で恐れの昔からの側面、おそらく時代遅れな側面がわかってくると、それが今にふさわしいものに変わっていくという。主たる自分は、少し後ろに下がって、フェルトセンスから自然に最良の決断が生まれるのを待つ。

 本書は、自分の過去に属しているとわかりはじめた事柄を優先順位から外して、現在や未来の家族や友人により深い価値を認め、人生が前に進んだ事例を取り上げている。

 状況全体を最も前に進める一連の行動を選ぶためには、洞察や確信が必要であり、それが生まれるのはやはりフェルトセンスからだという。

 3句目でフェルトセンスを表現する、俳句のコツも載っている。SFPの「ちょっと俳句ing」にも使えそうだ。何度も読み返して、人生の決断や日々の創造的な生活に役立てたい。

「傾聴の心理学 PCAを学ぶ」を読んで

  • 2018年12月24日 21:33

  2018年度の日本人間性心理学会に出席した際、買い求めた。日本にPCAを紹介した村山正治さんを札幌に招いてワークショップを開いたこともあり、フォーカシングから学び始めた人にとっては、パーソン・センタード・アプローチ(PCA)に関心領域を広げるのに役立つ。

 編著者の坂中正義さんは、フォーカシングやPCAを網羅した最新論文のまとめを毎年公表しており、これにはフォーカシング協会ニュースレターに掲載された全記事も含まれる。学会のランチオンセッションで坂中さんの人間性の豊かさに触れたことも動機になった。また、ロジャーズとジェンドリンの二人のおじさんと子供たちが、昔の4人掛けの列車で同席したという想定の挿し絵がほのぼのとしているのに引かれた。

 パーソンセンタード・カウンセリングとは何か、第2章から抜粋する。面接において次のように現れる。日常からのモードチェンジとして、①ペースダウンしてこの場に身をおく。②日ごろは事実関係などの理解を優先しがち。事実も大事だが、気持ちをわかろうとすることを意識する。日ごろは解決や結論にとらわれがち。まず、わかろうとする③語りを聴き手の中で響かせる④確認する⑤待つ、急がない・ゆったり。全体の流れの中では、①半歩後ろからついていくことをベースに。②私見は控えるをベースに③プロセスを意識する-これらは、大澤美枝子さんから日ごろ指導されていることでもある。

 ロジャーズ理論を学ぶときの根本的疑問に「カウンセラーが答えを教えた方が効率的では」「解決策が欲しい人には役立たない」がある。これは、結果のみが重視され、至るプロセスは顧みられない社会のゆがみの象徴である。効率・能率的な視点と、見守る・待つという視点は、共に大切という多元的な見方ができない。この偏りへの警鐘が、現代社会のこころの問題として表現されている。

 第3章の「体験過程理論とフォーカシング」は、夢とフォーカシングで知られる田村隆一さんが書いた。その中に、ロジャーズのいう一致は、自分のフェルトセンスを尊重し、そこから発せられる言葉や態度が、みずからのフェルトセンスと矛盾していないことだと言えるとある。

 第6章の「パーソンセンタードアプローチを学ぶこと」では、重要なこととして「自分自身との対話をおぼろげながら身に着ける」ことを挙げている。自身との対話は意外を難しい。わりとありがちな「正しい自身との対話」という外側の基準にとらわれなくてもいいので、「おぼろげながら」としたという。完璧を目指さず、なんとなくこんな感じかなあ、で始めてみることを勧める。実習方法としては、自分の面接を繰り返し聴き、文字化していくプロセス自体に大きな意味があるという。

 エピローグにあるとおり、「体験」の意味がすぐわかることと、だいぶ後になって見えてくることもある。今、見えている意味が時とともに変化していくこともある。体験の見えてくるもの、変化を待ってみることも大切である。この本は、何度か再読すると、また、違う意味が見えてくるかもしれない。人生の体験でも同様だろう。創元社、2017年9月。

「沖縄戦を生き抜いた人びと 揺れる想いを語り合えるまで70年」を読んで

  • 2018年12月26日 22:39

  沖縄大学の吉川麻衣子准教授が書いた。帯に「これは単なるインタビューではない。時を経て、場と仲間を得て、初めて言葉になった人々の想いの記録である」とあるとおり、珠玉のドキュメンタリーだと思う。

 私は新聞記者として戦後60年(2005年)に「戦禍の記憶」というタイトルで、戦争体験者へのインタビューを連載した。吉川さんも1999年から、これまでに約500人の沖縄戦体験者の聞き取りをした。ただ、1対1で聞くのではなく、体験者同士が同世代で語り合いたいという気持ちがあるのを知って、7つのグループを各地に設けた。約10年間の時間をかけてこの「沖縄戦を語らう場」が837回開かれ、出された話の中から、全員が掲載に反対しなかった体験だけを載せている。収録されたのは、本当にごく一部に過ぎない。語りたくない人には話すことを強要せず、語りたくなるまで待ち、場の安全感、体験者の安心感を何より重視しているところが、臨床心理学者である筆者らしいところだ。焦らず、せかさず、寄り添い続ける。時間に迫られて書く新聞記者にはなかなかできないことだ。

 文章もすっきり、スーッと読める。学術論文のイメージとは大違いである。語りをつむいでいくナラティブアプローチという点からも私は興味をもってこの本を手にした。

 沖縄戦で家族8人全員を亡くした女性(87)など、高齢で亡くなる前に、これだけは語っておきたい、という話がつづられている。出版前に先立ち、享年が書かれている人も多い。ぜひ、手にとって読んでほしい。2016年、創元社。

「期待とあきらめの心理 親と子の関係をめぐる教育臨床」を読んで

 2018年12月29日 21:51

  京都教育大教授で、日本フォーカシング協会次期会長の内田利広さんが博士論文を基に書いた。もとをたどると修士論文が基礎になっており、その指導をしたのが当時、九州大学の村山正治さんで、村山さんの「面白ね」の一言がなければ、この本は生まれなかったという。2018年秋に村山さんに札幌をお招きし、日本人間性心理学会でこの本を買った私にとって、何重の意味でも必読の書だったと言えるかもしれない。

 内田さんは、大学の教育相談室で不登校などの相談に長く携わり、親の話をよく聴き、その子供に対する操作的期待が変化することで、子供が登校を始めるのを見てきた。親が子供を自分の思い通りにコントロールしたいという期待が、そうできない子供側の理由が明らかになることで、あきらめに至ると、親子の関係が変わっていく。「あきらめ」には、プラスイメージの「明らかになる」とマイナスイメージの断念する「諦め」の二つの語源がある。「操作的期待」と「あきらめ」をキーワードに、不登校や障害児などの事例3つを挙げて、親子の心理プロセスを詳細に検討している。さらに、セラピストの適切な介入についても示している。

 学術論文が基礎になっているとは思えないほど、わかりやすく、読みやすい。思春期の子供の不登校や障害のある子どもの養育に悩む親に役立つ本である。

 この本では親の子供への操作的期待に焦点が当たっているが、内田さんは「操作性の起源を考えると、夫婦関係における配偶者への期待も考えられる。夫婦が結婚に至るプロセスや、その維持に関係するテーマともつながっていく」という。こうした今後の検討課題も示唆に富む。創元社、2014年。

「心理臨床講義」を読んで

  • 2019年1月10日 22:33

 村山正治さんから贈呈された本です。「札幌フォーカシングプロジェクトというコミュニティ、多様性が素晴らしいです。福岡人間関係研究会と共通点が多いです」と、添え書きされていました。この本は、大正大学カウンセリング研究所の50周年に村山さんと平木典子さん、村瀬嘉代子さんという日本を代表する心理臨床家3人を招いて講義してもらい、3人にインタビューもして、まとめられました。

 村山さんは、自己実現について「自分にないものを押し付けるのは自己実現ではないと思っています。自分にあるものを大事にすることが自己実現と理解している」と語りました。質疑では、PCAGIPで学んでいることとして「今、何が必要かを知っているのはやはりクライエント」であり、クライエントの要求してこないことに余計に助けようとしないほうがいい、と述べています。

 インタビューで村山さんは「今の自分では駄目だととらえて、モデルを高くもつのは非常にまずい。実は自己実現とは、今ある自分を大事にすることなんです。自分の持っている資質を活かすのが自己実現なので、違う人間になることではない。それはロジャーズも言っています。人間は今の自分を受け入れられない限り、絶対変わらないと言っています」と答えました。

 日本の若者の自己肯定感の低さに関連して、村山さんは「僕がフォーカシングを学んできて思うのは、やっぱり日本はコンセプトを重視しすぎです。自分の実感を大事にできない文化がある。フォーカシングのいいところは、コンセプトと自分の実感のずれを修正するのが基本というところです」と話しました。さらに、学校ではコンセプトばかり注入され、フォーカシング的に絶えず「やっぱりそれはおかしいと思う」とか「俺は納得してないな」とか、そういう実感に目を向けることをさせない。「自分の感触を大事にしない。それも自己肯定感の低さにつながっている」と述べています。

 このほか、村山さんの言葉で覚えておきたいことを羅列します。

・葛藤は解決するものではなく、抱えていくものです。自分の体のなかで、全体で抱えていたら、体が答えてくれるようなものです。葛藤はあってはいけないとか、解決しなければいけないとみんな思いすぎているんじゃないか。葛藤や迷いを持つことを認めないことがむしろ僕は問題あると思う。

・葛藤は、その人の人格が必要なことを背負いこんだものととらえた方がいい。だからそんなに焦ることはない。むしろ、葛藤をどう抱えていられるかをサポートすることが大事だというのが僕の持論です。

・今の世界の風潮は解決志向だから。でも、あればあやしい言葉だと僕は思っています。

・発達障害の人たちだけの場を作らない方がいいような気がします。神田橋(2010)じゃないけれど「人間みんな発達障害」。人間みんな違いがあって当然だという考え方です。

・二分法という手法はこわいです。結局は戦争しかなくなってしまう。コンテント(内容)を問題にする限り何も解決しない。宗教戦争のそれぞれの論理と教義を話していても何も解決しない。自分が正しいことを言うだけになる。だけど、あのビデオ(ロジャーズの世界平和のエンカウンター)を見ていていいなと思うのは、個人の気持ちの話になるとまったく人類共通になってくることです。  最後に村瀬嘉代子さんの講義で、何度もかみしめている言葉があります。「時所位」の感覚です。今、どういう時に生きているのか、今、何歳で自分にとっての時間はどうなのか(時の感覚)。次に、自分がいるところはどういうところなのか(所の感覚)。そして、自分がどういう位置づけなのか。自分は相当の責任を背負っていて、言い訳などしないで、ことに当たって処すときは、覚悟を持ってやらなくてはいけないのか(位の感覚)、というようなことです。2015年、金剛出版。

諸富さんが講演でフォーカシングを推奨

日本カウンセリング学会第52回大会が18日から札幌の北海学園大学で開かれ、招待講演者で明治大の諸富祥彦さんが「打って出るカウンセリング 自己を深めるカウンセリング」と題して話をしました。

 諸富さんは、カウンセラーが枠を超えて打って出る横軸と、枠を守って高み・深みを目指す縦軸があるとしました。横軸は、貧困層などに公認心理士が対応する時代とマッチし、SSTや第2世代までの認知行動療法などがあてはまると言います。縦軸は高みではトランスパーソナルやマズロー、フランクルを、深みではロジーズやフォーカシング、ユングを含めました。「フォーカシングが決め手になる。共感や傾聴の深さが違う。ロジャーズのいう内臓感覚に添っていくクライエントの大半がお腹のあたりを触っている変化の瞬間、ここが勝負」と語りました。
 具体的には、「離婚すると決めた」と何度も語るけど、「行動しない何かがこのへん(お腹のあたりを触りながら)にある」と言うクランエントに対し、「離婚すると決めたけど、行動しない。何かがあなたの中にあって止めている」というような応答をカウンセラーができるかどうかだと例示しました。
 そして、現在のカウンセラー養成について、「どこか、理論学習に偏っている。垂直軸のトレーニングが必要で、それには体験するしかない」と体験学習の重要性を強調。①人生を本気で生きる②自分を見つめる③深く語り合う体験を何度も持つーことを求めました。現在、カウンセリング界では、諸富さんの言う横軸が主流ですが、「やっぱり縦軸が今一度見直される時代が来る」という話に、フォーカシング一筋の私は元気づけられました。

池見さんのセミナーで学んだこと

  • 2020年5月25日 21:10

 池見陽さん(関西大教授)のオンラインセミナーが3月下旬に開かれ、私も参加しました。

私がフォーカサーをしたセッションで学んだ池見さんのリスニングについて大切だと思う点をメモします。他の参加者の秘密保護のため、私にかかわる部分だけにします。

1)ジェンドリンが「フォーカシング」の11章「傾聴の手引き」p156で書いている絶対傾聴は、リスナーが相手の言ったポイントの一つ一つを理解したままに伝え返す(say back)。ここで大事なのは、「理解したまま」ということ。リスナーが相手についていけなくなったときには、「私よく理解できなかったので、もう一度言ってくれませんか」と誠実にそのことを示します。

 リスナーから理解を確かめるような応答もフォーカシングを進めるのに効果的でした。池見さんから「聴いていて感じるのは……と伝わってきます」などという発言がありました。

2)(慣れてきたら、)リスナーが相手の話を正しくつかめたときに、全体のことが持っていた意味あるいは気持ちを表現する別のことを言います(前掲書p158)。セミナーでの池見さんの振り返りでは、「相手の言わんとしているフェルトセンスみたいところを言う。言葉を変える」と説明しました。私のセッションでも、私が言っていない言葉を池見さんが使いました。それは、池見さんが私の話を追体験していて浮かんできた言葉であり、私のフェルトセンスに暗在していた言葉だったので、推進(carrying forward)が起きました。

3)聴き方の台詞(せりふ)みたいのを固定化しない、相手によって違う聴き方をしていました。「出てきた人とどんなデュエットをできるか。毎回違うし、決まり切ったパターンでない。形を決めてやるというよりも、ケースによっていろいろやり方が変わってくるのが自分の特徴」と話していました。そこが池見さん流の面白いところです。

4)「それに今(これがあるって)、気づいておきましょう」。フォーカサーに何か浮かんできたとき、池見さんが何度か使った表現です。「気づいて」「おく」。おくのは手放すという感覚。仏教的だという。次に進むスペースができる。クリアリング・ア・スペースの「知っておく」に似ています。

第39回人間性心理学会に参加して

  • 2020年9月 6日 18:00

 日本人間性心理学会の第39回大会に参加しました。といっても、オンラインなので、ずっと自宅のパソコンに向き合っての参加です。

学会主催のワークショップとして開かれた「ベーシックエンカウンター」に3日と4日、顔を出しました。2日間に昼休みを除き計10時間、画面を見つめて、話を聴こうと集中していたので、疲れました。ベーシックのエンカウンターは初めてだったので、こういうものか、という新鮮な面白さもありました。

4日夕方には、自主企画で「人間性心理学と宗教性」に参加し、4人の先生の発表を聞きました。特に、九州大の吉良安之先生が、自らどういう人かたどれる先祖をひきあいに、自分がどういう人間だったか、家族でも前後4世代、300年から400年すると忘れられる。だれからも忘れられたときが、第3の死という話をしました。第一の死は、人生の節目における古い自分、第二に死が生物としての死。それに続く、第三の社会的な死というわけです。私たちは、自らの死をとても怖く感じているわけですが、散歩中に道ばたの植物を見てもわかるように死は生物にとって自然な現象です。「近代的な自分」を完全化しようとするのは誤りで、「生をもらった存在にすぎない」という話が響いてきました。

最終日の6日、「新型コロナウイルス状況下での人間性心理学の実践」という大会準備委員会企画のシンポジウムに出ました。ズームなどオンラインによるフォーカシングやカウンセリング、エンカウンターグループの長・短所が語られました。

画面に集中して目が疲れた4日間を終わり、しばらくは、遠くを見てぼーっとする時間や、何も考えずに、なんとなく感じるままに任せる時間を大切にして、人間としてのバランスをとっていきたいです。

池見さんと増井さんの対談集を読んで

  • 2020年9月 7日 09:01

 池見陽さんと増井武士さんの対談集「治療的面接の工夫と手順」を読みました。「健康と病気の中間であって当たり前ということを患者さんが受け入れていくことが治療的」(増井)、「私は病気に違いない、とか、私は病気だというふうに思うと生活が縮まっていくから、その病気以外の活動が減っていって、悪循環に陥っていく」(池見)など、含蓄あるやりとりに、なるほどと思いました。

池見さんと6人のセッション

  • 2021年3月28日 22:43

  昨年3月に続いて2度目になる池見陽さんとの少人数セッションに参加しました。ズームで、今年は参加者6人が2日間にわたり、池見さんをリスナーにフォーカシングの個人セッションを体験する、ぜいたくな時間です。