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コラム

煩悩とフェルトセンスについて

煩悩とフェルトセンス(身体感覚)について、岡村心平さんと仁田公子さんが、ジェンドリン哲学や仏教を語り合う企画で話しました。

 9月に沖縄で開かれたフォーカサーの集いで、フォーカシングプロジェクトが「ジェンドリン哲学や仏教を体験的に語り合おう~煩悩とフェルトセンス」という出店を開きました。講師を務めた岡村心平さんと仁田公子さんの話した内容が、ユーチューブで公開されたのを機に紹介します。
 岡村さんによると、フォーカシングが、なぜ身体感覚(フェルトセンス)を大事にするかというと、身体はどんなふうになったらいいかを知っているからです。フェルトセンスは、自分がどうなったらいいかを知っている、謎めいた存在です。
 環境と相互作用している身体は、環境を含意しているとジェンドリンは言います。含意の仕方は同時的なものだけでなく、まだ生じていない出来事も含みます。空腹は、食べ物の探索を含意し、食べ物の発見は摂食を含意しています。含意へと向かって生起するという方向性を伴い、含意に向かって生起した出来事は、食べると空腹感がなくなるように、含意自体を変化させます。こうした機能的円環の中で、フェルトセンスが存在するということは、何らの身体のプロセスの停止、欠如、何かが足りない(未完了)ということです。
 身体は未来において生じうる生起を「予感」していると、岡村さんは語りました。実際に幸せか満ち足りているかどかではなくて、「幸せの予感」があるかどうかで幸せは決まるのではないか、とも話しました。
 仁田さんは、煩悩とは、わずらいや悩むことなどと説明。生きていると避けられないものですが、「悟りへの入り口になる」と述べました。子を亡くした母親が仏陀に子を生き返らせる薬を求めたところ、死人の出たことのない家でもらいなさいと言われました。訪ね歩いた結果、どの家でも死んだ人の方が生きている人より多いと知り、救われます。仁田さんは「フェルトセンスも煩悩もきっかけになるものだから、人生は面白い。どんなに人生が苦しくても大変でも引き返したり、逃げたりしないで、それを体験し続けることで、硬くて重たいこころの扉が開き、別に地平が広がるきっかけになる」と投げかけました。